学生へのメッセージ
この講義は、参加講師全体の紹介とガイダンスをまずは行う。それとともに、震災後早くも半年余が経過した今、我々の思考から抜け落ちている視点、視角とは何か、につき、物理学者にして漱石門人の一人でもあり俳人でもあった寺田寅彦の文章を導きの糸として考えたい。
学生へのメッセージ
この講義は、参加講師全体の紹介とガイダンスをまずは行う。それとともに、震災後早くも半年余が経過した今、我々の思考から抜け落ちている視点、視角とは何か、につき、物理学者にして漱石門人の一人でもあり俳人でもあった寺田寅彦の文章を導きの糸として考えたい。
●履修者からの質問
加藤先生からお返事いただける予定です。
(1)日本史 Wさんからのご質問
加藤先生は、学生の質問に対し、関東大震災後の「帝都復興」も当初のプランから大幅に縮小し、また、その教訓も活かされず地方の小学校の耐震対策も不十分のままであったとの理解を示され、その原因を政党の党弊に求められました。
しかし私は、帝都復興と地方の小学校の耐震対策とはゼロ・サム的な関係にあったと理解すべきではないかと思います。すなわち、帝都復興の予算をめぐる対立は、まさに「帝都復興」に重点的に予算を投入しようとする後藤新平と、「帝都復興」によって地方への予算が少なくなるのを危惧した政友会との対立であり、この対立構造党内閣期にも本質的には続いていたと考えます。
政党内閣期の二大政党は、窮乏する町村財政に対応すべく義務教育費国庫負担の増額や、財源の委譲などを行おうとしていたのですが、多額の震災復興費(大幅に縮小されたにしても)がネックとなって、それらは十分に実現できませんでした。その結果、町村財政は依然として好転せず、町村費から支出される小学校の建築も不十分なものとならざるを得なかったのではないかと考えておりますが、いかがでしょうか。
(参考文献)
持田信樹「後藤新平と震災復興事業」、『社会科学研究』35巻2号(1983年)
原朗「1920年代の財政支出と積極・消極両政策路線」(中村隆英編『戦間期の日本経済分析』、山川出版社、1981年)
金澤文男『近代日本地方財政史研究』(日本経済評論社、2010年)
(2)英文 Yさんからのご質問
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという事実」との寺田寅彦の言葉について。これは、寺田先生のお言葉ですが、私はこれには異論があります。文明の度が増すほど、都市への人口集中は増し、またこれまで災害をおそれて利用しなかった土地まで利用するようになるので、自然災害が封じ込められなかった場合の災禍が増す効果は、もちろんあるでしょうが、大きく見れば、やはり文明によって災禍は大きく減少していると思います。
私が子供のころ(1946年~50年代前半)の台風では、何百人、時には何千人の死者、何万戸もの家屋全壊・流失などは日常茶飯事でした。1970年代になって、多摩川で何軒かの家が流れて大騒ぎになり、テレビドラマ「岸辺のアルバム」まで作られたとき、「いい時代になったものだ」と、つくづく思ったものです。これは、日本経済の発展もさることながら、やはり文明の恩恵でしょう。
今回の津波にしろ、もし地震警報や津波警報(たとえ高さの推測は間違っていたとしても)の発令がなく、自動車(所によっては渋滞があっても)などの避難手段が手近になかった時代だったら、死亡数はともかく、死亡率はとうてい今回の比ではなかったはずです。また、強い振動にもかかわらず、津波以外での家屋倒壊や火事による死者が少なかったことも驚きでした。中国の天津大地震や四川大地震、トルコでの地震などに比べて、建物の構造が強いことが主な理由ではないでしょうか。
もちろん、被災者とくに家族を失った方にとっては、そういうことは全く慰めにはなりませんし、上の私の意見を、こういう時期に公言することは憚られますが、寺田寅彦も、「気の利いたことをいう」誘惑には耐えられなかったのか、と思います。原発事故を考えに入れても、「距離を置いて」見れば、やはり文明によって(戦争の惨禍を別とすれば・・・)、総体的にははるかに多くの人間が、はるかに幸福に、安全になっていると思います。