「幸福」は照れくさいですが、「希望」もかなり照れくさいです。希望を照れずに語れるのはJ-POPか、文学あたりくらいではないかと思う。ただ、そんな希望の研究(希望学)を、仲間と一緒に七年間続けている。
そのなかで、おぼろげながら、幸福や希望の姿も見えてきた(気がするが、幻想かもしれない)。一度、あらゆる先入観を捨てて、幸福や希望について愚直に考えてみよう。
最後に。希望も、幸福も、本当は怖いものだと思います。
昨年の朝日講座を履修してくださった学生の皆様、熱心に講義をとっていただき、また議論に参加していただき感謝に堪えません。レポートも熱誠あふれるものが多く、採点をするために読みつつ、メモをとったり、考えさせられたりしたものが多かったです。また、今年の朝日講座、是非お手伝させてください、との嬉しい声も寄せられました。昨年の朝日講座にご出講いただきました先生方の講義は、いずれもが素晴らしいものでした。著作権の問題もあり、講義の内容をすぐさまそのまま視聴者にお届けすることはできませんでしたが、逐次、映像としてお届けできるよう頑張りたいと思います。今年の朝日講座は、私と玄田有史先生との対談で幕を開けます。今年は、昨年の講義と議論をふまえながら、希望と幸福について、じっくり考えたいと思います。昨年度履修した方も、今年初めて履修しようとする方も、ふるってご参加ください。
【玄田先生より】
・玄田有史『希望のつくり方』岩波新書、2010年。
・東大社研・玄田有史・宇野重規・中村尚史編『希望学』東京大学出版会、全4巻、2009年。
・村上春樹『1Q84』新潮社、2009-2010年(新潮文庫、2012年)。
【加藤先生より】
・私自身、当日は、玄田有史先生の著作を読んだ上で臨みます。皆さんも、是非。
◇文学部 行動文化学科社会学専修 学部3年
「あまり過度には損得にこだわりすぎない方がいい」「遊びにまで意味を求めてしまう世の中になってきた」「希望、幸福、などの定義にこだわりすぎると、大切なものがこぼれおちてしまうのかもしれない。」などのお話しが、本当に腑に落ち何度もうなずいてしまいました。合理主義や成果主義でしか物事を考えられなくなり、そして例えばその定義や意味づけに過剰にこだわってしまい、結果としてその本質を見失ってしまう、ということが自分にもあると思ったからです。
◇新領域創成科学研究科 国際協力学専攻 修士1年
安易な希望は危険であり、他人を傷つけ、自分を傷つけ、そして社会に重大な問題と亀裂を生む。希望は安易に見いだせるものでもないし、ましてや与えられるものでもない。誰かが与えてくれる、わかりやすくて大きな物語に自己をコミットしてはいけない。現代日本社会において求められるのは、自分の身近にある生活をそれを囲む環境、そして周りにいる人々との関係の中に、信じるものを見出し、それを希望へとつなげていく試みであると思う。
◇工学部 機械情報工学科 学部4年(以上)
私が講義中に考えていたこととして、期待と希望の違いがある。私の印象では、希望の方がはかなく、簡単に散ってしまいそうで、期待の方が実現しうる可能性が高い。言葉の使われ方を少し考えてみただけで違いが大いにあるということは分かるが、どう異なるのか、幸福との関係は、ということについて今後考えてみたい。