第2回 

 菅野覚明 (東京大学大学院人文社会系研究科 倫理学)

「極楽浄土はどこにある?」

 

 健康で長生き、財産に恵まれるというのが、日本に昔からある最も平凡な、「幸福」の定義である。ありきたりの定義とはいえ、よくよく見れば、これもそれなりに含蓄の深いところがある。例えば、「財産」の中に、金銭、物質だけでなく、知識や家族といったものを入れることができるであろう。そうすれば、この定義の及ぶ射程は一気にひろがってくる。あるいは、「長生き」が「幸福」であるということを、「生そのものが幸福である」という命題に変換してみるなら、これは、ありきたりどころか、まさに一つの哲学の相貌を帯びて来るであろう。講義では、このいかにも平凡に見える定義の、極限的な形について考えてみることにする。
 健康・長生き・財産の正反対、つまり「不幸」の基本形は、仏教でいう「無常・苦・無我・不浄」である。この「無常・苦・無我・不浄」が全くないものの、具象的なイメージが、極楽をはじめとする「浄土」である。講義では、日本思想における浄土の観念を手がかりにしながら、具象的イメージの限界点でとらえられた幸福の絶対値がどのようなものであったかを考えていく。

 

参考文献

必須ではありません。興味があればお読み下さい

 

・親鸞『教行信証』岩波文庫、1957年 の真仏土巻、化身土巻

・源信『往生要集(上下)』岩波文庫、2003年 の大文第2「欣求浄土」

・凝然『八宗綱要』講談社学術文庫、1981年 第6章「天台宗」

・吉本隆明『最後の親鸞』ちくま文庫、2002年

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◇歴史文化学科日本史学専修課程3年
講義の中で私が興味深く思った点は、仏教を理解する際に論理を求めるのは愚かな者がやることである、という点である。賢明な者は論理を教えられずとも、自然に仏教の世界に没入することが可能であるということである。…だが、仏教のように、それが通用しない世界があるということに感銘を受けた。大事なのは、物事を頭で理屈でとらえるのではなく、体で、心で体感することであるということを学んだ。

 

◇法学部第二類3年
仏教における幸福の究極形態として、「自己が自己として充足しており、かつ他者も他者として充足しており、自己の幸福がすなわち他者の幸福であり、 他者の幸福がすなわち自己の幸福である状態」があげられていたのも興味深かったです。自分の幸福が他者の幸福につながり、他者の幸福が自己につながり…と いうプラスの循環を構築することができたら、確かにそれは素敵だと思います。

 

◇経済学部経済学科3年
・・・今までの仏教理論のイメージは 「とにかく難解」「枝分かれ」「ある種の不条理さ」といった「学問」の複雑さに囚われていたものだった。しかし、今回の管野さんの言に従うのであれば、むしろ仏教は 「学問」ではなく「身体運動」としてとらえるものであるのでないかと感じる。例えばテニスというスポーツについて考えてみる。テニスにも教本があり、「このタイミングで肩甲骨を意識してテイクバック」や 「大きくラケットを回すようにフォロースルー」といった「複雑」な解説が踊っている。しかし、実際にプレイしている時にはそういった「言葉」の感覚は消滅しており、「身体」のオートマティックな動きに従うことになる。テニスを出来る人間は動きの最中に教本の複雑な解説を必要とせず、今までの練習によってまるで身体に動きが埋め込まれたかのように正しい動きを生じさせる。仏教も身体運動の、上述のような構造を持っており、だからこそ「修行」という鍛錬の繰り返しが重要とされているのではないか。

(以上)