第5回 

 塚谷裕一 (東京大学大学院理学系研究科 植物学)

「植物の幸福。」

 

幸福という言葉について、擬人法を使えない生き物、植物を使って考えてみましょう。たとえば「ど根性ダイコン」というのを知っていますか?2005年、兵庫県相生市で「見つかった」このダイコンは、道路脇のアスファルトの割れ目に生えていたため、逆境にめげず「ど根性」で頑張っているとして、日本中から応援の声が寄せられました。二匹目のドジョウを狙って、次々と「ど根性○○」という植物が各地から報道されもしました。でも植物の生き方を知っていると、この「ど根性ダイコン」、決して「頑張って」もいないし、「逆境」の元にもいないのです。むしろ、幸福にのびのびと育っていたとみても良いくらいでした。こんなふうに、植物の生き方には、人間の側の安直な擬人法的見方からは見当違いを生むところがあります。でもそれだけだとあまりに当たり前です。植物の生き方も、よく見ると人間の生き方とかなり似ています。となれば逆に、植物の側から擬「植物」法で人間の生き方を見てみたらどうなんでしょう?人間の幸福とは、植物的な価値観から見たらどう捉えられるのでしょう。この講義をきっかけとして、皆さんがそれを今後、一生をかけて考えることとなるよう、ここではまず、植物の生き方を知ってもらいたいと思います。

 

 

 

参考文献

・塚谷裕一『植物のこころ』岩波新書、2001年。

 

 

※塚谷先生の『ドリアン――果物の王』(中公新書、2006)の阿部公彦先生による書評はこちら

【紀伊國屋書店書評空間 Kinokuniya Booklog】

http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2012/08/post_114.html

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

法学部第二類・3年

 「植物」というヒトとは違う種から幸せを客観的に眺めてみるというのは新鮮で面白かった。ヒトと植物の違いとして思ったことは、植物には自殺、もしくは自己犠牲というものはあるのだろうかということである。人の場合は生き続けることよりも自ら命を絶ち苦痛から逃れたり、もしくは誰かや何かにその命を使ったりした方が「幸せ」だと考えるということが起こりえるが、植物はそういった行動をとるのだろうか。

 

経済学部経済学科・3

 人間は植物よりも「個」を尊重する傾向にあり、個人の価値観や考えを重視する。植物は種の存続も生きる目的、繁栄の一部であるが、人間の場合は、個が重視されるために、繁栄に種の存続は含まれないのかと授業を聞いて考えた。個人として子供を持ちたい、結婚したいと思えばするけれど、子供がいなくても家族がいなくても物質的に恵まれて満足で繁栄していたらそれでいいということなのだろうと思った。種の存続すら個にゆだねられているという点が植物と人間の大きな違いなのかもしれない。

 

文学部美学芸術学・3年

 植物について考えることは、普段は自明のものとしている様々な概念に再考をうながしてくれる。人間には生きる目的はない、という冒頭の話が印象的で、それでは人間が幸福を求めるという行為はどのように位置づけられるのか気になった。なぜ人間は幸福を求めるのだろうか。前回の進化論的な話がカギを握っているように思えるのだが、ポジティブなムードが必ずしも生存に有利にならないという話をどう位置づけるのか、という問題が重要であると考えた。

(以上)