歴史に学ぶという視点から、経済学が「幸福」とどのようにつきあってきたのか、経済学の、そのゆがんだ片思いの足跡をたどります。
・ブルーノ・S.フライ、アロイス・スタッツァー著『幸福の政治経済学-人々の幸せを促進するものは何か』佐和隆光・沢崎冬日訳、ダイヤモンド社、2005年。
・大竹文夫ほか『日本の幸福度』日本評論社、2010年。
・デレック・ボック『幸福の研究』土屋直樹ほか訳、東洋経済新報社、2011年
◇文学部 言語文化学科 国文学 3年
今回で非常に印象的だったのは、「所得が増大してもほとんど意味をなさなくなる閾値がある」という事である。日本のように、大部分の人が一定以上の収入を得られるようになった先進国では、これ以上の経済発展が、国民の幸福感の増大に必ずしもつながらないという事は、経済的豊かさと幸福の関係について、労働と幸福の関係について、改めて考えさせられる契機となった。所得の増大がそのまま幸福の増大に比例する社会から、それらが対応しない社会に発展した今、経済発展とは異なる方法で、幸福というものを模索していかなければならない。そのためには、経済学的な効率第一主義から離れることが必要なのかもしれないし、労働を収入を得るためのマイナスと位置付けず別の意味付けをする必要があるのかもしれない。
◇経済学部 経済学科 3年
ただ、成長を手放すのは理想的であるが、成長が停滞することは、現実では国家が相対的に没落していくことになる。鎖国でもすれば定常状態が国内で安定的に保たれるが、全く現実的ではない。あがいても没落していくのであれば流れに身をまかせるのもいいかもしれないが、どうなるのかは正直全く想像できない。ボランティアなどは生活費が賄える悠々自適な人がやればいいし、就職活動を控える学生はそんな流ちょうなことを言っていられないと思う。もちろん明日食うに困る人も日本にいる。ただ、どんな立場の人も成長を目指し続けるにはなかなか無理がきていること、成長以外に目指すべき代替物が見当たらないことが問題と思う。
◇学際情報学府 文化・人間情報学コース 修士1年
日本国内に限った話、またその中でも現在の大卒者の状況だけを取り上げるとすれば、労働に関する価値判断があまりにもマイナスであるために、それと反比例する現象として“ワークシェア”や“選択としてのフリーター”が応急処置的に登場しただけで根本的な解決にはなっていないと感じる。“失業の恐れ”から過労が日常となる労働者に加えて、雇用側もまた、マルクスが定義した資本家という対抗勢力ではなく、株式やグローバル化する経済の従属者としてある意味“労働”を余儀なくされている。こうした八方塞がりの状況では、権威のある経済学者達が「パイを大きくすることはもう十分である。」と宣言をしなければならないと感じる。そのためには学術界に閉じこもるのではなく、マスメディアを通して大々的に発信してほしいと思う。
(以上)