自然保護の世界では、まもられるべき自然が、「ナショナル・パーク」や「サンクチュアリ」、さらには、「保存地区(コア・エリア)」「保全利用地区(バッファー・ゾーン)」というような形で区切られ、通常の人間の生活から切り離された形で設定され、さまざまな手法で「まもられて」きた。
この、「まもられるべき自然」という「境界線」は何を意味するのだろか。また、一方で、「外来種」という形で、駆除され、排除されるべき生物が、やはり、ある種の「境界線」で区切られている。「侵略的外来種」という概念は、まさに、私たち人間のまもるべき自然(生物的には「在来種」)を「侵略」する存在として、積極的に排除されるべき存在を示している。
いったい、この「境界線」は、どこで引かれるのであろうか。その正当性、正統性は、どこにあるのだろうか。また、そもそも、そのような境界線を引いて、「環境をまもる」ということは、どういう意味があるのだろうか。あるいは、どのようにやっかいな問題を引き起こしているのだろうか。
「境界線を引く」という形で環境をまもることそのものを再考する必要はないのだろうか。そのような形で多く涌き出てくるさまざまな問いに対して、この講義で考えていきたい。そのことは、生物多様性保全ということの意味を考え、環境をまもるということを根源的に捉え直していくことでもある。この探究のプロセスは、まさに「環境倫理」そのものであると言えよう。「境界線」から「環境倫理」の基本的なあり方を探ってみたい。
・鬼頭秀一、福永真弓編『環境倫理学』東京大学出版会、2009年。
・鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』筑摩書房、1996年。
・上記、『環境倫理学』の、序章「環境倫理の現在──二項対立図式を超えて」及び、第7章「『外来対在来』を問う──地域社会の中の外来種」。
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文学部 行動文化学科 社会学専修過程 4年
今回の講義におけるグループディスカッションではタイワンザルにおける解決策という議題であったが、その中で地元の人々という視点が少なかったように感じた。なぜならば、解決する当事者というのは地元の人々というのがほとんどであると思うからである。このような観点から考えると、地元の人々には地元の原風景や価値観というものを守るないしは、そこからの変革を拒否する保守的な傾向が存在すると思われる。つまり地元の人々は自明のものを当然とする考えが少なからず存在するというものである。
文学部 行動文化学科 社会学専修課程 4 年
私は外来種の駆除に関する議論というのは徹底的に倫理的であり、モラルに関する抽象的な議論を脱することができないと思う。なぜならば、鬼頭先生がおっしゃっていたように、問題となるのは自然と人間との「心の関わり」であり、どこまで人間が責任を取らねばならないかという責任論であり、決してサイエンスの議論だけで終わる話ではない。環境倫理学という何か矛盾を内包した名前が、この問題の複雑さを物語っているのだと感じた。
文学部 思想文化学科 倫理学専修課程 3年
タイワンザルであろうがアカゲザルであろうが (中略)獣害を考えればどちらも駆除した方が良いに決まっている。
しかし、それは人間の開発の論理であって、この論理にだけ従うことに人間は苦い思い出を持っている。自然破壊によって自らの生活をも脅かすことになるのを知っている。だからアカゲザルを守るのである。アカゲザルの生活を守り、彼らの環境、すなわち自然を守る。だが我々の開発にあまり文句をつけてくるようでは困るから、タイワンザルを駆除することでその数を減らす。自然開発と自然保護の両立を目指して、ニホンザルを守ることを言い訳にし、タイワンザルに犠牲を強いるのである。
経済学部 金融学科 3 年 計量経済学
まもるべき自然とは何か、とは重い問いだ、とタイトルを聞いて思った。自然を守る、というフレーズ自体が奇妙といえば奇妙だ。人が自然を管理している、という意味合いが潜んでいる表現だと感じる。そうではないことが、震災や津波で証明されてしまったばかりだというのに。一方で自分は、今のままで自然を破壊することは長期的に人間のためにならないとも感じる。自然を守る、環境保護、というのは「自分たちにとって居心地のいい」環境を守る、という意味だろう。外来種駆逐は「今までの自分たちの暮らしに、異物を持ち込んで厄介ごとを増やすリスクが嫌だ」ということの表れであろう。