他人と共に生きるのはそれほど簡単なことではない。カップルであれ学校であれ社会であれ。ましてや国際社会においては。
共に生きるためにはまずはケンカしないことが大切だろう。もちろん暴力はよくない。ケンカした場合の仲直りの仕方も大切だ。ケンカしないだけでなく仲良くした方がいい。できればなにか一緒にやってみるとか。一緒にやってることがうまく行っていればケンカもしないだろうし。
国際社会は400年くらいかけて共に生きるための知恵を育ててきた。ケンカを統御するための「共存の国際法」となにか一緒にやるための「協力の国際法」と。この2つは結構複雑に絡み合いながら、とくに冷戦終焉後はどんどん増殖して、私たちの生活の中にもずんずん入りこんできている。TPP、WTO、京都議定書、ハーグ子奪取条約、集団的自衛権。
身近なところから「国際社会における共生の法」=「国際法」の過去・現在・未来について考えてみたい。
① 森肇志「国際法から考える集団的自衛権」『潮』2013年12月号、244-247頁
② 森肇志「国際法における法の実現手法」『岩波講座 法の動態II』(岩波書店)2014年
③ 奥脇直也「現代の国際法過程における国家、私人、国際制度」『ジュリスト』1299号2-8頁(2005年)
④ 小寺彰・奥脇直也「多数国間条約体制の意義と課題」『ジュリスト』1409号8-10頁(2010年)
⑤ 小寺彰『パラダイム国際法』第1章(有斐閣・2004年)
参考文献の②
◇ディスカッションのテーマは日本が今後国際社会の中で果たす役割はなにかという問いであった。森先生は、日本は国際法を順守する点については優等生だが、作る方には消極的だったと仰っていた。日本はこれまで明治維新後から長きにわたり西洋型の法典を作成し、それを正しく解釈運用するということに注力してきた。そして、戦後70年が経ち、日本は西洋に劣らない成熟国になっている。日本は、議会によって法律を作りその法律に基づいて政治を行うという仕組みが機能しているし、国民の間にも法律に従って行動するという法意識・法秩序が十分に形成されている。私は国際社会での国際法の有効性を保つためには、国際社会の中の各国が国内において法治国家となり、法律を正しく解釈運用していくこと、そして国民ひいては世界中の人々の中に法に従うという意識が芽生えることが必要だと思う。(後略)
◇「国際法は不完全なもので、我々がそれを埋める努力をしなければならない。そしてそれが共生につながる。」この言葉が、今回の講義で1番印象深かった。なぜならば、共生とはただ両立しているとか、併存しているという状態だけを意味するものではなく、多主体間で共通の土台の上に立って議論するという過程をも意味していると考えたからだ。これを今までの朝日講座にも敷衍してみると、共生とは、「あらゆる主体が、常時それ自身や他者との関係性を変化させながらも、互いを尊重し、存在し続けるということ」を意味するではないかと考えた。そのためには、共通の土台となる部分を探す必要が出てこようし、利害調整のためのツールが必要なときもあろう。朝日講座は今回で終了したが、具体的場面に応じた適切な共生の仕方、これを様々な学問領域に引きつけて、これからも考えていきたいと思う。
◇国際社会に対してかくあるべき、と主張するのは難しい。ベースとして持つ考え方が国ごと、文化ごとに異なりそのどれもがそれぞれにとって正しく時に他国他文化にとっては正しくないからだ。自国にとっての「正しさ」を他国に押しつけることには大抵正しさはない。しかし、そんな主権国家同士の関係も適正に調節されないと全体にとって不利益が生じる。そこで諸国家の共生を図るため登場するのが国際法である。これには言わずもがな主権国家相互の同意が必要とされる。だがもし、同意しない国家があったら?全体の和を乱す国家があったら?そうした国に武力で対抗するのは許容されることなのだろうか。ベースとなるコンセンサスを持てず、しかもそれを強制できない主権国家間をどのように調整するのがよいのかもっと考えてみたい。
◇グループワークでは集団的自衛権が話題の中心となった。集団的自衛権を行使できる状態にすれば、「いざという時にはあなたの国を助けます」という意思表示になり、外交上有益であるという意見が出た。しかし、自分は行使できる状態にすることで、武力攻撃やテロの標的になるリスクが高まるのではないかと考えた。確かに集団的自衛権を行使できるようにすることで外交が上手くいく場面があるかもしれないが、日本は軍事面ではなく、経済や教育などの援助を通じて外交を円滑に進めるべきではないかと考えた。議論を通じて、先生がおっしゃっていたように、どの選択肢を選んでもリスクはあるということを理解しなければいけないと感じた。そして選択の際には、これも先生の言葉だが、現状をしっかりと理解する必要があるとわかった。最後の講義だったが、改めて「共生」は簡単にはできないと感じた。しかし、それに向けての思考を止めてはいけないとも感じた。