宗教的な要素を現実社会へどれだけ反映させるのかは、今なお中東に関連してはきわめて重い課題です。そのことは、2011年1月25日革命以後のエジプトにおいて大きな焦点となっていることからも、明らかでしょう。また、異なる宗教の信徒の共存状況は、現在中東において悪化の一途をたどっています。しかし、我々は宗教的対立と決めつけて思考停止してしまうのではなく、個々の事例を丁寧かつ歴史的に解きほぐしてゆくべきでしょう。
ー「宗教の共存」は異なる宗教同士が、「宗教との共生」は宗教を信じる人と信じない人が、いかに共に生きるか(生きてきたか)という意味です。―
宗教を異にする人々・もたない人々が共に暮らすには、何が必要でしょうか。本講義では、「相互理解が必要」「対話が大切」というありがちな模範解答が陥りやすい問題点を検討し、なぜ宗教に関する知識を増やすことや誠意をもって話し合おうとすることだけでは、必ずしも共生に直結しないのかを考察します。その上で、共生の方策を大きく左右するものとして、①下支えする倫理の共有が可能かどうかと、②その人々が暮らす社会がどのような歴史をもち、現在どのような政教関係をルールとしているのかという点があることを理論的に明らかにし、それらを現代の事例を紹介することで肉付けます。
【藤原先生より】
① 山中弘・藤原聖子(編著)『世界は宗教とこうしてつきあっている―社会人の宗教リテラシー入門―』弘文堂、2013年
② ユルゲン・ハーバーマス、ヨーゼフ・ラッツィンガー『ポスト世俗化社会の哲学と宗教』(フロリアン・シュラー編、三島憲一訳)岩波書店、2007年
【大稔先生より】
③ 村山盛忠『パレスチナ問題とキリスト教』ぷねうま舎、2012年
④ 三代川寛子(編)『東方キリスト教諸教会 : 基礎データと研究案内』上智大学アジア文化研究所、2012年
⑤ 大稔哲也「エジプトを生きるイスラーム教徒とキリスト教徒---2011年エジプト「1月25日革命」までの歩み---」『藤女子大学キリスト教文化研究所紀要』第13号、2012年7月、1-38頁
参考文献の①より「はじめに」i-vii頁と「日本で困っていること」232-233頁
◇宗教というものの神秘さと不思議さが増した授業だった。宗教も、大きく言えば思想の一つだと思うが、なぜ思想が違うだけでいがみ合わねばならないのか。互いに他を認めるということがそんなに難しいのか…、と思ってしまった。そして、宗教が趣味や娯楽に先立って特別扱いされるのも解せない。授業で、趣味のための部屋はダメでも、祈りのための部屋は設けられる…という例を聞いて愕然とした。趣味も当人にとっては一大事である。生き甲斐そのものかもしれない。いや、だからこそ、他人がその人の宗教をバカにしたり蔑ろにすることは許されるべきではない。
◇日常生活で宗教を意識するといった経験を特にもたないので、今回の異教徒の共存する社会、宗教をめぐる共生を考えるというテーマは新鮮で面白かった。イギリスの宗教対応ガイドブックのような、異教徒と付き合うためのルールを明文化し、不公平にならない社会を作るという取り組みは実に有用だ。宗教間対話を通じて世界にあまたある様々な異文化を深く知り理解しようとすることよりも、「自分とは異なる価値信条を持つ者がいる。自分たちにとっての正義と同じように異教徒も彼らにとっての正しさを持つし、絶対的な正しさというものは存在しない。」という他が他として存在することを肯定的に見て押しつけがましくない立場をとることこそがグローバル化が進む社会において我々に求められているのだと思う。
◇大稔先生の講義を通じて、宗教とは好むと好まざるとにかかわらず、それは人間らしさの噴出であるとの思いが萌した。個人にとっての宗教とは、歴史的に作られたものであり、民族史として、社会史として、あるいは人生史としてつくられるものではないだろうか。だからこそ、ひと言で言えない、一括りにできない「厄介さ」がある。藤原先生の、異文化理解的な宗教の共生の発想における陥穽を問う講義は、実に興味深かった。英仏の対照的な宗教をめぐる環境を取り上げていて、先生はややイギリス的なダイバーシティのあり方を積極的に評価しているように思えた。異文化を知識として「理解」するのではなく、異文化の摩擦をどうしたら回避できるか、そのすり合わせこそが大事だと考えるのだろう。そうして、いわゆる宗教対立といわれる諸問題も、貧困や戦争などの別の問題を解決すればなくなるという発想は興味深かった。
◇日本で暮らしていると宗教はイベントの時くらいしか関わらない縁遠い存在だと感じることが多いが、そのような「無宗教が前提」というのは世界全体から見ると特異なことで、多国籍の人々と関わっていくのであれば「誰もが何らかの信仰を持っている(無宗教含む)」という前提で物事を考えていく必要があると思った。また、世界的に見ても適切な対応に到達しているわけではなく、日本に限らず現地の価値観に左右されている部分が大きいように思われた。授業では「知識や対話は必ずしも役立たない」とのことだったが、事例に出会い、関わる人々の意見を聞き、対応を考えることは有意義であるように思われる。さらに、大学も優秀な学生・研究者の獲得のためにサービスが必要で、日本の文化だから…とふんぞり返っていられないというのも新たな発見だった。公平性を追求しようとすると結局は誰もが我慢しなければならない気がして、この問題の難しさを改めて感じた。