科学はさまざまな自然現象から法則性を見いだし、自然を理解する学問です。しかし、科学が導き出す答えは必ずしも確定的でなく、しばしば確率的です。そして、確実な答えを求める人々と科学との間に横たわる溝は、軋轢や不信を生み、大きな社会問題になっています。東日本大震災や医療事件などを例に、科学とのつきあい方を考えます。
① J.L.モノー『偶然と必然』みすず書房、1972年
② 竹内啓『偶然とは何か-その積極的意味』岩波新書、2010年
③ 河田惠昭『津波災害-減災社会を築く』岩波新書、2010年
④ 田辺文也『まやかしの安全の国-原子力村からの告発』角川SSC新書、2011年
参考文献の②より第5章
◇ディスカッションでは「必然」派と「偶然」派の対立は解消しうるのか、ということだったが、その解消ために最も必要なのは、最終選択者(原発の場合は地元住人)の理性的判断力を磨くことだと考える。必然派と偶然派の対立(政策論争等)は先鋭化して行きがちであり、議論のなかで科学が使われて批判し合いが行われる。この時に、科学が絶対的正解を示すものではなく確率的なものをであるということを理解していないと、適切な判断を下せなくなる。科学は正解ではなく、正解に至る「手段」なのだ。
◇「科学=不確実なもの」という指摘は、私たちが科学を「確実なもの」として盲信していることを認識させる。私たちは自然科学を日常で用いる言葉だけでなく、数式などのような一貫性のある「言葉」として、積極的に説得の道具に用い、語っている。だから私たちは容易く科学を信じてしまうのだろう。私たちは、自然科学が説明している事柄を理解したうえで自らの判断基準を設定すべきである。そして、同じように思考を巡らせる人々と共に生きていくために、科学のまとった「論理性」を隠れ蓑にせず、自分の判断基準を盲信してはならない。私たちが科学と、或いは自分以外の人々と生きていくためには、科学、そして自らの不確実性を意識しなければならないのだ。
◇ 自然科学には大きな不確実性を有するというのは重要な指摘だと思いました。不確実性とリスクとの認識の混同は少なくありません。不確実性下ではどのような事態が、どのような確率で起こるかわからないので、ある選択肢についてそれが高リスクか低リスクか意見が分かれるものです。また更にその後、その選択から得られる便益に対して、どこまでのリスクが許容できるのか、という問題も生じます。こうした二重の問題を混同することで問題がより複雑化していると思います。前者こそ科学の持つ不確実性の問題であり、後者は個々人のリスク選好の違いです。たとえ科学が完全だとしてもそれだけでは対立は解消しない、それどころかより先鋭化する可能性すらあるかもしれません。
◇産業革命以後、科学は全能であるかのように思われてきた。しかし、東日本大震災と福島の原発事故が我々の信じてきたものの脆弱さを一瞬にして露呈させた。単一の化学反応ならば「絶対に」正しいものが解っているが、生命体も社会、地学も複合的な内外の環境因子が絡み合って次の瞬間の反応を起こすもので、すべての掌握は現状到底不可能だ。それゆえこれらの事象については統計学的アプローチをとり「確率的に」出されたデータに基づく判断をするしかない。そこに絶対というものはありえないのだが私たちはとかくそのことを忘れがちだ。あくまで不確かさの残る中で判断はなされるという認識が重要である。
◇科学は自然界に起こる様々な現象を説明してきた。しかしその一方で、科学は、人類には決して完璧に理解することのできない自然界の現象を、”理解”するための手段の一つにすぎないということを忘れてはいけない。現代社会では、科学を信奉しすぎていて、なんでも「科学的知見からすると」と言えば、そのことが完全に正しいことのように受け取られがちだ。しかし、この世界において本当に確かなものは何もなく、ただ、人類にとって確かだと思われているだけである。原子力発電所も、ダムも、この世界を住みよくするために人類が工夫して生み出した。元々自然界にあったものではないので、自然現象と齟齬が生じることは免れえない。人災が起こる可能性はどんなに科学的に小さかろうと常にある。人類がつくり出したものである以上、その施設が人災を引き起こし、それが現在の科学によって説明できる範囲を超えた想定外の事態によるものであったときは、責任をその企業や政府だけに負わせるべきではないと考える。