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論文
※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。
◇潜在化した身体は,誤差を生じた時に初めて顕在化するが,大味を承知で述べるならば,これは何も物理的な誤差に限った話ではないように思える。例えば人と人が会話して話が通じなかった時や,猛勉強して試験を受けたが失敗した時を例に取っても,自分の予測とアウトプットの間に乖離が生じた場合に人が感じる不和は痛みを伴って,自らの身体(あるいは人格)と外界の境界を明確に浮かび上がらせるのではないだろうか。そのような状況において,「私」なるものが世界と断絶したような気持ち,萎縮してしまって動けなくなるというような気持ちは,少なくとも身の回りの友人の間では経験として共通の見解のようである。身体があった時の「予測」と,身体の無い現在の状況との間に誤差があることにより身体が顕在化し,痛みを感じるのが幻肢痛だが,謂わば「幻私痛」ともいうべき痛みがそこに観念できるようなことを考えた。(法)
◇身体が外界と自分をつなぐメディアであるという考え方は想像がつくものであったが、潜在化されているときにこそ機能するものであるという考え方は少し意外であった。メディアが常に可視、意識可能なものではないと言うことが新鮮な上、さらに痛みなどで顕在化されたときにはメディアとしての機能が損なわれるという部分に興味がわいた。また、お話の中でいわゆる健常者のことを定型発達と呼んでいたのにも興味を持った。正常と異常、良と悪といった価値判断の含まれるような分類で考えるのではなく、あくまでも普通の人々の発達をまとめたものが「定型」でありそれに含まれない人を「違う型」と捉えている、ニュートラルな発想のように思え、それぞれの人を個として尊重する当たり前だが意味のある考え方であると感じた。一方で、その「定型」をどのようにして定めるのだろうかという疑問を持ち、またそれはとても難しい問題のように思えた。(文)
◇自己の身体に対する予測可能性があるということは、自分がそうなのだから目の前にいる他者も同じような思考で同じ動きができるのではないかという読みに発展し、一体感や安心感が得られ、心的距離が縮まり親密な関係になりやすくなるのだと私は考える。クラシックバレエを習っていた際には、大人数で同じ舞台に立ったが、自己の身体に対する予測可能性を他者に置き換えて想像し、他者から想像に反しないフィードバックが得られると心が通じ合うような感覚になり息の合った動きが可能になった。この時、互いに、外界と残りの身体の境界は自己の皮膚ではなくなり他者をも取り込んだのではないかと思う。身体の予測可能性が投影され合うことで他者とのかかわりは濃密になる。他者とのかかわりのなかで身体の予測可能性を見直すこともできる。通常、潜在化し意識されない身体が他者とのかかわりによって認識、発見され自己の思考と動きについて考える材料になる。(農)
◇予測可能性の獲得により脳の外部は身体化される。初めは肉体さえも外部だったものが馴化・身体化され、さらには道具にまで身体は拡張される。このような身体化は、都市空間にまで広げられる。都市は外界たる自然に比べて見通しのきく、均一化され、知り尽くされた空間である。人は肉体や道具を身体化し、さらには生きる空間まで、確実性を求めて作り替えていったのではないか。だとすれば、そのメディアが顕在化するのは身体の危機、すなわち災害のときである。例えば震災で私たちは、大地は揺れること、電気のスイッチや蛇口(これらも身体化されている!)の機能が自明ではないこと、アスファルトは固く、靴がなければ歩けないことを学ぶ。ここにおいて私たちは脳から都市までの間にある様々な階層のメディアの存在と、あらゆることの自動化に馴化した肉体の脆弱性とを再認識するべきではないのか。(教育)