(松井先生より)
経済の大学院相当の文献しかありませんが、一応参考までに文献を紹介しておきます。
※履修者には書籍・論文を貸し出します。詳細は初回授業でお伝えします。
我々が普段使用するのは、所謂信用貨幣であり、貨幣自体には額面通りの価値はない。講義中の黄色いマグネットと同じく、それ自体で何かの役に立つわけではない。しかしながら、人々が「この貨幣は自分の欲しいものと交換可能である」と信じることで、貨幣自体が価値を持つようになる。そう考えてみると、言語も非常に貨幣と類似した性質を持っていることがわかる。「バラはどんな名で呼んでも同じようによい香りがする」という言葉があるが、あるものを指す言葉は、その言葉である必要性は全くないわけである。だが、我々がその言葉と、その言葉が指し示す実体との関係を、他人と自分が共通認識として持っていると信じることで、コミュニケーションが成立する。このように、媒体の持つ意味は、人々の信頼の上に成立しているが、各個人の認識は微妙に異なっている可能性がある。貨幣の場合は、定量的に、指し示すものを表すことができるが、言語はそうではなく、同じ言葉を使っても人々は多様な受け取り方をしているので、コミュニケーションの難しさは、そこから来ていると言えるだろう。(経済学部・経済学科4年)
貨幣はある財の価値を定量的に表し、交換手段として人と人とを媒介することで「欲望の二重の一致」の問題を解消するものであるが、同時に現在と未来の間を媒介する道具ともなるのではなかろうか。私人を超えた存在(国家)によって価値を権威付けられた貨幣は、その定量的な性質ゆえに貨幣として保有していれば名目的価値を保蔵しておくことができる。その点で、現在林檎を貨幣に換え、将来林檎を買うことによって、(物価変動はあれども)同一人物の中でも消費を先送りすることができる。
貨幣も言語も慣習も、媒体である以上何かしらを伝達する手段であるが、一つの違いとして、伝達物に対するデフォルメの度合いがあろうか。媒体としての貨幣は財物の価値のみを表すことに特化しており、デフォルメ率が高い(designされている)が、その分普遍的に定量化に成功している。対して言語は、人間の思索一般を対象にしているため、普遍性が弱いのではないだろうか。(法学部・第1類4年)
授業内で提示された、「貨幣」、「言語」、「慣習」の共通点について考える。それらは共に「相手の行動の予期が必要となる行為において、相手の行動可能性を縮減して把握するためのメディア」として機能していると考える。授業内で待ち合わせの例を用いて示されたように、慣習は相手の特定の行為を予期し、行為を成立させるのに役に立つ。同様に、貨幣があることで、誰かが持っているものを自分の持ち物と交換してほしい時、「何となら交換してくれるか」とか「そもそも交換してくれるか」という可能性を考えないようになる。また言語があることで、ある情報を伝達する時に、それを他の意味で理解される可能性が小さくなる。この話を第二回の授業内容と接続すると、貨幣、言語、慣習はそれぞれ、他者とのコミュニケーションにおいて、他者の行動を予測可能にするためのメディアとして機能しているといえるのではないか。(学際情報学府・社会情報学コース修士1年)
人文学に携わる私が経済学に対して従来抱いてきたイメージは、決してよいものではなかった。複数名詞たる「Humanities=人文学」が想定する人間の複数性・両義性・多義性を、「Homo
Economicus」という単一的な人間像に還元してしまう、そんな味気ない学問。それが私の経済学イメージだった。ところが、松井先生のシンプルかつ奥行きのある講義は、そんな経済学に対する先入見を一変させてくれた。複雑な現実の経済を単純化するモデルの有効性への批判に対し、先生が最後に紹介した経済学者ジョーン・ロビンソンの「縮尺1/1の地図は役に立たない」という金言は、とっておきの反論だ。翻って、私がそうであったように、人文諸学に携わる人々の多くは、自らが「人」の名を冠しているというただそれだけの理由で、人文学こそが人間について最も適当に説明できる、という万能感に浸ってはないだろうか。松井先生の講義が惹起したある種の衝撃をふまえると、解釈学の基本構図たる他者理解による自己理解を今こそ活かし、人文諸科学は経済学をはじめとする他分野との交流・衝突を通して、積極的に自己変容すべきだと私は感じた。(文学部・宗教学宗教史学3年)