高野 明彦(国立情報学研究所 連想情報学)

「知識の蔵のつなぎ方:情報の蓄積を発想力に換えられるか」



予習文献

 

・『検索の新地平:集める、探す、見つける、眺める』 高野明彦(著)角川学芸出版(2015)

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

発想と連想はどう違うだろうか。雑駁な印象論でいえば、連想は既存の情報をもとに次の一歩を踏み出すが、発想は既存の情報からは飛躍した地点に突然出現する、という感じであろうか。しかし、一般に発想と思われているものも、既存の情報を組み合わせて生み出されているのであり、単にその思考過程が一般的に辿れるか否かによって区別されるのだろう。このことは、人は知っている事からなら自由に発想できる、そして知らない事からは発想できないという二面性をもって人の思考の限界を画する。更に、前者は「発想」に使われる自己の知識は、主観による選別を経たものに限られるという弱点を持つし、後者について、情報検索コストがゼロに近い現在において有用である、「どこに何の情報があるかを漠然と知っている能力」は従来型の教育の中では育まれにくいという弱点がある。今回ご紹介頂いたサーヴィスはこの二重の問題を解決しようとするものであろうか。(法学部・第1類4年)


「文化遺産オンライン」は、検索システムで情報を探している、というよりむしろ図鑑を見ているような気持ちになる。辞書でことばの意味を調べるとき、紙の辞書が良いか、それとも電子辞書が良いか、ということがときどき話題になる。電子辞書は紙の辞書よりも周辺情報が入ってこないため、初学者には不向きだ、というのである。このことの是非はさておき、今回の「文化遺産オンライン」や「イマジン」は、どちらかというと紙の辞書に近い印象を受ける。周辺の情報があれこれ目に飛び込んでくるのである。「文化遺産オンライン」で「分野から見る」をクリックすると、まず感じることは文化遺産の種類の多さである。あるいは、時代別に探そうと「明治時代」をクリックすると、明治時代のさまざまな文化遺産がひとしく並んでいる。見とれていると、つい自分が何を調べようとしていたのかを忘れてしまう。単純な検索でひとつの知識を仕入れることは確かに便利ではあるが、時間をかけて「文化遺産オンライン」や「イマジン」を博捜することは、きっと私たちの思考の核となり、教養となるだろう。(文学部・日本史学3年)


今回は文化遺産オンラインについての講義だったが、自分は正直言って、内容の相関度で関連付けるということを特別視する姿勢に少し違和感を覚えた。というより、そういった姿勢が一般化することは非常に危険な問題だと感じた。なぜなら、googleにおいては、アクセス数やリンク等に応じて相関性がつけられているが、それはいわば大衆、一般市民の判断の総意である。対して、文化遺産オンラインでは、専門家の判断により相関がつけられる。これは一見ポジティブなことのようにも思えるが、重大な問題もはらんでいると思われる。専門家による知の独占である。専門家がシャットアウトしたい関連性はシャットアウトできてしまうのである。知の独占が生じると、例えば原発問題の際に正確な知識を専門家が独占していて市民の政治参加が損なわれていたような状況に似た状況が現れてしまうのではないだろうか。(教育学部・基礎教育学コース3年)


今回の授業および先生のコメントでgoogleと異なるアプローチを複数の検索サイトを用い多様性を開こうとする試みに共感した。検索エンジンによる検索が一定の方向性を導いてしまうのであれば、利便性の代わりに多様なものの見方を失わせることになり、それが事実かどうかを問わない政治的な権力を持ってしまう。授業で触れられなかったgoogleの画一性として「現在のものの見方で過去が検索される」ことも挙げられる。たとえば2000年代前半のサイトですら、検索を行うことに困難を伴う。つまり、過去の事実は現在の目で記述したものしか検索に上がってこず、当時の人々がどう思っていたかは振り返った者の恣意的な見方に依存することになってしまう。他方で想もその紹介文に現在性が含まれてしまうとはいえ原典の紹介を多数行っているためより多様なものの見方を提供することができるだろう。(人文社会学研究科・文化資源学修士1年)


Googleと想imagineの比較を通して議論している中で、グループの中でGoogleの方が圧倒的に便利だという意見が多数だったのが印象的だった。ここには、「情報を得る」ということ自体に関する、Googleを日常的に利用している人に特有の捉え方が前提されているのではないかと考えた。つまり、彼らの中で、何かについての知識を得るということ自体が、その何かに関して断定的に、一つのテーゼに縮減して言えるような情報を獲得することであると仮定されているのではないか。そういった仮定が悪いことであると言いたいのではないが、一方である情報は、その他の情報と連関しながら成立するという側面もあるとも言えるだろう(その連関を明らかにしていくことは、授業内では「学術的な目的での情報検索」と表現されていた)。このように、ある情報伝達メディアが、何らかの抽象的な思考態度それ自体を規定するような事態が、この授業の中で浮き彫りになったのではないだろうか。(学際情報学府・社会情報学コース修士1年)