今回はiPS細胞という、文系ではあまり触れることのない事情についてうかがえて、非常に興味深かった。
倫理的問題が技術の向上スピードに歯止めをかけているようで、中内先生がもどかしさを感じているような印象をうけた。私は、動物実験やクローン動物を用いた移植臓器の作成は、それを望む人々が多いなら(そして実際グループワークの発表を聞く限りそのような人が大多数のようだ)進めればいいと考えている。それを使うか使わないかが個人の自由にゆだねられるべきで、そのための例えばインフォームドコンセントの充実というような法整備が、私のような法学徒の仕事なのだろう。
ただ、非常に個人的な意見を述べるなら、動物を犠牲にするとかそういう状況を抜きに、生に執着する人の気持ちがよくわからず、終始居心地の悪さを感じた。(法学部政治コース)
自分の快楽のために動物を殺すことは当然批判を受ける。今回の医療行為が倫理的に批判を受けるのは、ともすれば人間の勝手とも言える願いのために命を奪うこの行為がそれとは違うと言い切れないからである。海外では、確実に実用化への道をたどるだろうし、日本がどれほど規制をかけても、治療を望む者は海外で治療を受けるだろう。いたずらな規制は、日本の医療的進歩を遅らせるだけである。ならば、実用化に向けて及び腰でなく積極的に議論していく必要があるように思う。
農業高校を舞台とする漫画『銀の匙』では、食肉にするために豚を育てる場面がある。主人公は、出荷するまでの3ヶ月間正面から真剣に悩み、最終的に自らの手で調理し無駄なく食すことで、彼なりに命に向き合った。答えの出ない倫理的問題に対して、我々ができることは罪の意識を正面から見つめ、その勝手とも言える振る舞いに責任を持つことではないか。(文学部歴史文化学科美術史学専修4年)
細胞再生技術の飛躍的進歩により、クローンや臓器再生移植を始め、人類は従来「神の領域」と思われていた世界に迫りつつある。旧世界の価値観からみると、神を恐れぬ所業に見える一方、難病や障害に苦しむ人々にとっては、当に神の恩恵・奇跡の扉が開かれようとしているともいえよう。日本の官僚体質が、こうした新技術の開発の支障となっており、国益を損なうという見方にも一理あることは間違いない。
ナチスや中国のような全体主義国家であれば、カネと技術さえ潤沢にあれば、こうした新技術は何の憚りもなく超高速で進められることだろう。一方、人権意識・民主主義意識の強い国家は、それに比べれば、後れを取ることになりかねない。面倒くさい民主国家と効率的だが暴走が怖い全体主義国家のいいとこどりができるかどうかという問題は、技術進歩が神の領域に近づいた今こそ、改めて問い直されているともいえよう。(人文社会系研究科文化資源学研究専攻)
グループディスカッションではキメラ動物の問題で盛り上がりました。例えば膵臓のないブタの体内で人間の膵臓を作ったとして、このブタ人間キメラはどれくらいブタ的・人間的なのか多くの人が疑問に思いました。そしてそのブタの体内の人間の膵臓を移植したとして、少しはブタの細胞は混入するのではないかという危惧もありました。すると移植を受けた人はこれで95%人間5%ブタになるのか?と考え始めた途端少し可笑しくなってきました。
移植ではないが似たような例を考えると、異種族から生まれる子供は「ハーフ」や「クオータ」と呼ばれてきました。50%アメリカ50%日本の血が入っているねだなんて、人はこのようになんでもきっちり分けてラベルをつけなければ気が済まないのがいけないような気がします。究極に言うと全人類は遡ればアフリカ人の遺伝子が入っているように、一々ラベリングすることは差別を生み出すとしか思えません。(文学部行動文化学科社会心理学専修)
自分の体が再生可能になった時に、少しでも気に入らない点があると、何度も何度も再生させなおすというような強迫観念にとらわれる人が出てくるのではないかという危惧も感じる。自分の体の定義が変わっていくと、「自分」の定義も揺らいでいく。(農学部環境資源科学課程国際開発農学専修3年)