今回の講義は日本史がどのように構成されているのかを把握するきっかけになった。戦後、近世の資料を中心に農村・地方史の研究が盛んになったが、それが第二次世界大戦に日本がなぜ突入したのかの分析にも使われたこと、戦後復興が進み経済発展が急速化し、都市化が進むと日本史研究の主眼も地方から都市史へと移行していったことは非常に興味深く、歴史研究は過去ばかりを見ているように思っていたが、常に現在の社会の状況に大きな影響を受けているのだと気づいた。歴史研究における資料の分析の重要性を認識するとともに、限られた資料から歴史を叙述するには多少の性向が表出せざるを得ないのではないかとも考えた。そして、21世紀を今後、研究者がどのように解釈し、分析するかに私は興味を抱いた。「現代」は資料として残る情報量が莫大であるため、後世の研究者が21世紀を振り返って評価するにはこれまでと異なったアプローチも求められるだろう。(法)
歴史研究における特殊性と一般性、記録に残された支配階級を主人公とする歴史と記録を残す意識もそれ以前に文字を使いこなすことさえも縁遠い名もない人々の「歴史」、など、一言では語りつくせない歴史研究の多様性に触れることのできる貴重な経験となった。
グループ討議の中で、主に理系の学生から、「特定のイデオロギーを前提として論理、ストーリーを組み立てたうえで、その筋書きにあったファクトを集めていくという手法をとれば、それはもう科学とは言えない」という意見が出されていた。
もっとも、サイエンス研究においても、やみくもにファクトを収集するよりも、仮説を構築したうえで実験を通じて検証していくことは通常のスタイルであり、科学と人文学を根本的に隔てるものではなかろう。
多分、イデオロギーに対するこだわりの強さという程度の問題であり、そうであれば、人文学者は、価値からより自由であるべきという意見もありうる。しかし、思想のない人文学は随分味気ない色あせたものになるだろう。であれば、一般性を確保できようとできまいと、本人が面白いと思うものに拘り続けるというのが一番なのではないか。(人文社会系研究科)
授業を通じて、歴史というのは絶対的なものではなく、歴史の描き方は描く人・描く時代の価値観に左右されるのだとわかりました。史料を選び、そこから事実を抽象・捨象し、歴史を描く。それぞれの過程で主観が入り込まざるを得ないことを踏まえると、どの時代にどのような観点から歴史が描かれてきたかということ自体、歴史学の研究の成果自体が、後世の歴史学の研究対象となり得るのではないかと思います。数百年後の歴史学者は「21世紀頃から歴史学の文献に村と家に関する記述がなくなった。この背景には~」などと研究発表するかもしれません。そのうえで、グループワークの際に話題となった「歴史学の意義」について考えてみると、史料や文献を保存することができるという物質的な側面だけでなく、歴史が研究されていることそのものに現在の価値観を後世に伝承する意味があり、廃れさせてはならない学問であると思いました。(法)
歴史学は、主に文献史料に基づき現在の社会が形成されてきた過程を解明する学問だ。特に近世以降は大量の史料が遺されており、現在もその解読が進められている。しかし、その保管は主として村内で長年続く有力な家が自主的に担ってきたため、遺された史料には必然的に恣意性が含まれる。当時の状況に真に迫るために、歴史学の手法の限界を認識し、現存する史料中の記述以外にも目を凝らした分析が求められる。我々が教わる日本史は、個別の文献資料を紐解き、関連づけ、俯瞰的にまとめあげる過程を経る膨大な努力の上に成り立つ。既に日本全体の方向性に大きな影響を与えた出来事の年表はほぼ完成しているが、地方史の編纂は史料自体の制約や後継者不足等で停滞している。権力者の視点に立つ史実とは視点の異なる、各地方・町の歴史の解明は、地方の価値の再発見に繋がり、住人の心を豊かにすると共に資源の発掘に寄与する可能性を示唆する、価値あるものだ。(薬)
歴史上の有名な人物や現象について調べるのがなんとなく歴史学者のやることの中心だという思い込みがどこかにあったので、地域史の研究背景や方法について触れられたのは新鮮でした。
また、私のグループは歴史研究の意義についても話したのですが、歴史研究の難しさの一つに、「この歴史研究にこのような点でこのくらい経済に貢献する」ということが言いにくい、現在において価値判断が難しいことがあると思う。たとえば前回の授業でいらっしゃったカリスマ公務員である遠藤さんが地域に残る歴史文書に乗っていた記述を元にUFOのまちとして町おこしを行ったりと、その地域のアイデンティティとして代替不可能な価値を発揮するようなことは、非常に予想しづらい。そういったことを踏まえ、幅広い研究と研究結果の保存、オンラインアクセス可能なデータ化が薦められるべきだと思った。(文)