今回のグループワークのテーマは「演劇における偶然崇拝に賛成か反対か」というもので、私達の班は「偶然と必然は表裏一体、グラデーションのようなものでどちらかだけが必要ということはない」と結論付けました。
野田先生のお話の中に、演劇には7種類のテンションがあるが、これらは役者の思い込みだけで演じられており、その危うさが本物に見える瞬間が演劇である、というお話がありました。私はこれこそが、演劇が必然かつ偶然であることを示していると思います。役者がテンションを演じ分けたり、脚本や演出においてテンションを使い分けたりすることで観客がその観客が芝居のテンションを感じるのは必然です。なぜならば、第8回の鈴木先生によれば「必然性は存在しないことが可能でないことである」からです。芝居の中でのテンションを伝えようと役者、戯作、演出全てにおいて努力をする以上、その意図は確実に観客に伝わると重います。ですが、その役者のテンションを本物だと感じるためには、観客のそれまでの経験であったり、その時の心情であったりが大きく作用すると思います。そのテンションを身近に感じることができるような経験をしたことがある人は勿論本物と思いやすいですし、全く感じたことも経験したこともない人にとっては想像しづらいものだと思います。また実際の経験がなくとも、多く本を読んでいたり芸術に触れる機会が多かったりなどで想像力の豊かな人もテンションを本物と感じやすいでしょう。したがって、芝居のテンションを観客が本物と感じるか作り物と感じるかは偶然に左右されるのではないでしょうか。しかし、これは芝居の作り手側の目線であって、観客側の目線では、それまでの経験によってテンションの感じ方が決まるということは、テンションの感じ方は必然であるということになります。
よって、グループワークの結論通り、演劇においては偶然と必然は表裏一体、グラデーションのようなものでどちらかだけが必要ということはないと思います。 (工学)
今回の授業で印象的だったのは、映画やドラマと演劇の違いが言語化されて腑に落ちたことである。映画やドラマは完璧であることしかない。演劇は完璧であることがほとんどない。映画やドラマでは、そこに予期せぬアドリブや偶然があったとしても、世に出すか出さぬかという判断を間に挟むことができる。演劇では、どうしたって進むしかない。
また今日のお話では「偶然を利用する」ということに2種類あったと思う。本当に誰も意図していない場合と、意図的に偶然に見せかけている場合である。後者はもはや偶然ではないがこの2つに明確な切れ目はない。後者は高度な「騙し」であると感じた。手品も似た構造を持つかもしれないが少し違う。手品は騙されるとわかっているからである。演劇はそもそもが虚構であるところを「騙されてあげている」ところへさらに騙されることになる。しかもそれが騙されたのかそうでないのかも煙にまかれたままなのも魅力なのかもしれない。 (文)
今回の授業は、創作者として非常に理解ができるもので、身に迫るというか、身近に感じていることだったなあと思った。特に、大英博物館を見ているうちにアイデアが出てきて、話を書いて、その最後のオチまで決めてしまったという話は、よく分かるものだった。偶然の交差、と先生は仰っていたが、確かにその通りだ。私も、アイデア出しに詰まった時、なんとなく地元の本屋に向かって背表紙とあらすじだけを見て、アイデアが降って来るのを待ったりすることがある。そこで、偶然降りてきたものが案外よかったものだったりする。しかしディスカッションでも言っていたが、その行動は、偶然ではなくある意味必然なんじゃないか、と言う話を聞いて、「偶然を引き寄せる」ことと「必然を起こす」ことの差異って何だろう、と考えた。気づかなかっただけで、それは必然なのか?それともまったくの偶然なのか?それは私には判断付きかねる。 (教)
今回の講義では、創造力と偶然性について考える機会となった。野田先生は講義を通して自身の劇作の出発点、着想源について解説してくださり、そこで、アイデアは天から降りてくるのを待つような所がある、とおっしゃった。しかし実際に幾つかの着想の手段を明かしていただいた際に感じたのは、野田先生は複数の偶然の上に立ってサーフィンのようにそれを乗りこなしているということだ。つまり、ただ待つのではなく、それを呼び起こす主体的な行動を常に探り、その偶然を巧みに組み合わせることでさらに面白くする可能性を生み出していた。どこかに転がるアイデアの源を見つけに行く、偶然を迎えに行く姿勢の有り方を教えていただいたように思う。
また演劇に関して、観客が偶然を喜ぶ、そしてそれをあえて演出として使いこなした例(『足跡姫』の戸板の場)や、テンションの7段階についてといった技術的な話に触れることができたのは興味深かった。 (文)
今回の野田先生のお話は、先生自身が演劇に関わる際に偶然が大きな役割を果たし、また演劇創作のためにも偶然が必要だということだったと思う。しかし私が講義を聞いて思い出したのはフランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメのことだった。彼は詩句における偶然を排して、すべての言葉が必然的にそこにあるような詩を書き、そのために言葉の意味と音の関係の偶然性(恣意性)すらを必然性で構築し直すということを成し遂げた、「必然性」の詩人であった。マラルメのことを考え合わせると、文学には二つの態度があるだろう。一つは作者が自分の理論によって作品を緻密に練り上げる「必然」的態度、もう一つは(野田先生のように)作品において現れる偶然を重視する「偶然」的態度である。今回の野田先生の講義では後者の態度が前面化していた。それは先生の「自分の意図に従って作ってもつまらないものになる」という言葉からもわかる。しかしそれでも私は「必然」的文学を完全に無視することは出来ないだろうと考える。自分の人生経験という「偶然」に頼った作品がどこかで見たことのあるようなものになってしまう事実が私の仮説を裏付けるだろう。文学には、マラルメが自らの「意図」によって偶然性を排除し、彼以前は誰にも書けず、そして今も読まれ続ける詩を書いたような必然的態度も必要ではないだろうか。 (文)
「偶然」をどう定義するかが人によって異なり、議論が難しいと思いました。それをすり合わせる時間がいつもないのですが…。
私の考えでは、「ある人にとっては偶然の出来事だったが、実は仕組まれたものだった」というような場合や、「その時は偶然に思えたが後世から振り返ってみれば周期的に起きている出来事だった」といった場合を「実は偶然ではなく必然だった」と言ってしまってよいのか疑問が残ります。もしそうだとすると、全ての事柄はそれ以前に起きた事柄の帰結なので、この宇宙で起きていることのほとんどは「偶然ではなく必然だった」と言えてしまうのではないでしょうか。(決定論的ですが)
「ある人にとって、(現在に至るまで)偶然だと思われている事柄」は、その人にとっての「偶然」と認めて良いのではないかと思います。つまり、偶然というのは主観的な概念であり、個々人にそれぞれの「偶然」が成立しうることを認めるという立場です。
ただ、ひらがな50音表から偶然を見出すというのは、見出そうとしている時点でそこには野田秀樹氏の解釈や意図が加わりすぎて、偶然とは呼べないのではないかとも思いました。その人が偶然目に留めた事柄から着想を得ることは偶然でも、それを利用・検証することは意図的な行為なので「必然」だと思います。
50音表の話であれば「あい」「かき」「さし」「たち」が性的な言葉であると気づくあたりまでが前者で、この「ひらがな表で縦に並んだ2文字に意味を見出す」という見方を転用して2~3段目に「いう」「きく」「しす」「ちつ」「ひふ」の並びを見出し、さらに「その間の「にぬ」にも意味があってほしい」と考えてニルヴァーナとこじつけるところは後者だと言えるのではないでしょうか。ただ、これも厳密に分けることは難しいかもしれません。まず「あい」「さし」「たち」に気づき、その後「かき」も性的な意味に取れると気づいた、という言い方をしていらしたので、「かき」も「見出した」側に入る可能性もあります。
「偶然着想を得た」と「必然的に見出し/こじつけた」ことの間にはグラデーション的だが違いがある、というのが私なりの結論です。 (文)