◆ 私たちが劇そのものの中で発される言葉を聞いておらず、どこかで知ったあらすじの確認をしているという考え方は、そうかもしれないと自身もハッとさせられた。劇に対して映画のような一方的な提示するツールというイメージがあったが、今日の授業で劇における対話性に気がついた。また、ディスカッションを通して劇団側と客側の対話の難しさ、そして、予測不可能性を感じた。乱入と介入の違いについて考えるのが意外と面白かった。今回の授業では講義内で偶然という言葉はほとんど出てこなかったが、観客参加の劇は偶然性の詰まったものであり、そのような観劇の仕方を学べたのはとても良かった。(文学部 日本語日本文学・4年)
◆ お遊戯として、あるいは道徳教育として小学校低学年くらいの頃に観た劇くらいしか観劇体験がない身としては、イェリネクの『光のない。』のようにアバンギャルドな作品を見るとどうしてもびっくりしてしまう。不条理さを演劇に期待していないので、今現代演劇を見てしまうとすごくもやもやした気分になりそうだ。しかし、このもやもやは観劇体験を重ねて演劇言語を習得すると、(理解することはできないから解消しないだろうが)もしかしたら受け入れられるようになるのかもしれない。この授業を受けたことと課題図書『おもしろければOKか?』を読んだことで、演劇に少し興味を持てた。素晴らしい芸術に触れられる機会が増えると思えば5000円の観劇料も高くないので、演劇を趣味としている知人とともに劇場へ足を運んでみたい。(薬学系研究科 薬科学専攻・修士1年)
◆ これまで演劇というのは役者が決まったプロットをきっちりと観客に対して演じるものだと考えていたが、前回と今回の講義を聞いてその形式は数ある演劇の形式の一つに過ぎなかったのだと気付いた。特に、観客にその回限りの「偶然」を楽しませたり、観客も役者と一体になってその場限りの演劇を「偶然」に作り上げたりと、演劇は液体のように形を変えつつ揺れ動くものだというのはとても新しく、興味深い認識であった。その一方で、今回の講義テーマでもあった、その偶然をどこまで役者が受容し、どこまで観客が生み出していくのかという点の議論はディスカッションをしてみてとても難しく感じた。ある程度の質を担保するために「必然」を追い求めるべきなのか、失敗したときの責任を請け負いつつも偶然性を探求するべきなのか、『地点』の新たな取り組み(観客をcultivateするプログラム)の今後の可能性も踏まえつつ、より深く考えていきたいと思った。(法学部・3年)
◆ 今回のお話で最も印象的だったのは、観客は身体として、役者の生身の身体と向き合うことができているかということである。私は駒場の学生演劇をしばしば観るが、言われてみればテレビを見るような身体感覚で観劇してしまった劇もあったような気がする。でも確かに、筋を隅から隅まで理解できたかと言われれば怪しいが「よかった劇」「刺さった劇」というのはあった。私自身の「観劇リテラシー」と劇自体の力、相互の作用ではないかと思う。先日、友人のダンスの公演を観に行った。特に悲しい場面でもなかったのに大いに泣いた。まさに身体の力を感じたのだと思う。「からだいっぱいに表現する」という言語表現があるがまさしくその表現が似合うように思われた。身体のひろがりは、物質としての身体の「かさ」を超えてあるということが実感される経験であった。(文学部 哲学・3年)
◆ 先週の野田さんの講義に続いて、演劇は飼いならせない偶然には弱いという印象をもった。観客が舞台上のルール習得や心身の準備の下で舞台に介入するということは、すなわち舞台を作る側が制御することのできる観客による「偶然」を取り込むことを意味する。これは偶然でないとは言えないが、日常的な意味で我々が経験する偶然とは大きく異なった、飼いならされた偶然である。他の芸術に比べ偶然の要素は大きいだろうが、やはり演劇も人間の「意志」がその生産を担うように思う。加えて、今週の講義の内容で批判したい点が一つある。先生が述べたように演劇の観賞にあたり準備、知識、経験が必要とされ、そうした前提がないと楽しめない、劇自体をぶち壊してしまうとなれば、演劇は時間とお金に余裕のある人々に限られた排他的芸術になってしまうのではないか。文化による社会内部での階層的差別化が指摘されていることも考えれば、これは危険なことだと思う。(経済学部 経済学科・4年)
◆ 文学部の文学研究科に所属している身としては、固定されたテクストに基づく小説や詩とは異なり、上演時に予測不可能な要素が多々関わってしまうために演劇(戯曲)は文学ジャンルにおいて周縁的ではないかという偏見があった。しかし今回の講義で一回性・時空間共有など、演劇の時空間芸術としての特色がクロースアップされることで、むしろそのような演劇の「偶然性」(予測不可能性)が演劇の強みであり、またそれこそが文学の最前線としてジャンルそのものに革新をもたらしうるのではないかと考えるに至った。楯岡先生は演劇におけるコードが常に刷新されることが、演劇という芸術の様式だとおっしゃっていたが、小説や詩という「紙に情報が印字された本というメディア」におけるコードの更新が滞り気味である現在において、文学において演劇をモデルにしたコードの刷新の必要性と有効性を検討すべきではないか。(文学部 現代文芸論・4年)
◆ 演劇における観客参加の可能性の検討が中心となった授業で、とても刺激的だった。とくに観客参加ないし観客の主体性を論じる際に、「演劇言語の習得」が要となるという指摘は非常に腑に落ちるものだった。やはり伝統芸能を除く近現代の演劇については、ヨーロッパの観客と日本の観客とでは観劇にあたっての意識の持ちよう、構えが全く異なるように思う。簡単に言えばやはり、あちらの方が成熟しているというか、少なくともより積極的・協力的である。グループワーク(これまでで一番というくらい白熱した)でも、たとえば「金を払っている観客が劇に責任をもつなんてあり得ない」というような意見があった。顧客とサービス提供者との間にある壁──ある種の経済的契約関係──は確かに根本的なファクターではある。しかしナマの舞台を「みんなで作る」という意識の希薄さは、残念ながら舞台芸術に対する認識不足、演劇言語の訓練不足に拠る部分が大きいと思う。(人文社会系研究科 現代文芸論・博士課程)