◆ 今回の授業で印象的だったのは「知っていれば必然、知らなければ偶然」、「必然は必ず対策ができる」という先生の言葉である。私たちは日常をわかりきったものとして処理しがちである。しかしわかりきっていると思っていても実は知らないことがたくさんあり仕方のないもの(=偶然であるもの)としてあきらめているのだということを感じた。(文学部・3年)
◆ この講義を通して、紹介された先生の過去の解決案もまた必然性を持ったものだと感じた。グループワークにおいて実際に渋滞緩和について思考した回答の多くが、選択肢を増やす、つまり渋滞の混雑を分散するための余地を増設するというものであり、その選択がある限りある程度の偶然性を認める、不確定なものであった。一方で先生の案は、対象者に意識させずに渋滞緩和の方策へ誘導させる、といったものであった。この点からも、先生が、渋滞という不確定にも思える社会現象を解析し、ことごとく必然性を見出し、それを必然性をもった策案を回答していく、渋滞学として学問と体系づける姿勢に納得ができた。(文学部・3年)
◆ 渋滞について考えることは偶然、あるいは必然ということについて意識的になるきっかけを与えてくれるだろう。普通人は渋滞にはまると「ついてない」と感じ、その原因などは考えない。こうした日常的感覚からすると渋滞はまさに偶然の産物となるだろう。しかし、その実態を観察すると車間距離というなんともシンプルな要因が出てきて偶然の産物と思われた事象が必然のものとなってしまう。このようなことは世の中に溢れているのではないだろうか。「知らないものが偶然なのであって知ってしまえば必然となる」このことは科学的探求が突き詰められていけば全てのことは必然となることを示唆しているのではないだろうか。しかし私には、一方でそのような決定論的な世界観を拒否しようとする願望のような直感がある。必然にあふれた世界のなかでいかに「偶然」というものを見いだしうるのかということをひとつの個人的テーマとしてこの講義を受けていきたい。(文学部・3年)
◆ 今回の講義では、人間の行動を制御する研究が著しく進んでいることを改めて考えさせられた。渋滞や混雑を解消するのに、「人々の意識を変える」「社会の設計や制度を変える」という2つのやり方が示されたが、特に後者の意義は大きい。構造物の設計や社会制度に我々の行動が無意識に影響を受けることに注目して、住みやすく効率の良い社会の実現に利用する様子は鮮やかで感動した。その一方で、言いようのない恐怖感を覚えた。人間行動の研究が、健康や人生設計、消費、家族形成、教育といった分野での行動を「望ましい」方向に導くのに使われるようになるのではないか。研究だけを進めておいてその使用の可否は社会が決めるというのは、理論上は可能だが、技術に対する社会の欲望は抑えが効かないことは核技術や監視カメラの例が証明している。人間行動を巡る研究を「どの生活領域に用いるか」だけでなく「そもそも進めるべきか」の議論が必要だと思う。(経済学部・4年)
◆ 西成教授は講義の中で、渋滞について研究する内にその原因のほとんど全ては必然であると考えるようになったと仰っていた。偶然と必然の境界線はどこにあるのだろう。思うに、万人が偶然や必然であると合意するものは極僅かであって、その他は全て蓋然の域に納めらる。そして偶然や必然に対して設定する蓋然性の閾値が人によって異なるから、偶然であるか必然であるかの判断もまた自然と人によるのではないか。であるならば、ある事柄を必然であると他者に承認させて、したがってこの要素を取り除かねばならないと納得させて行動に移させるには、相手の感じる蓋然性を高めるような説得が必要になる。説得力を高めるためには、定量的な説明が極めて便利だ。ここに、前回の和歌では偶然性が論じられ、今回の渋滞では必然性が論じられた原因があるように思える。では、定量的な説明と相性の悪い和歌のような主題について説得力を高めるには何が出来るのだろう。哲学や弁論術が解決策の一種なのではないか。(文学部・3年)
◆ 「神はサイコロを振らない。」渋滞学は、その言葉の意味を体現する学問であった。論理的に説明されることで、渋滞を回避する行動を理解し納得することは容易いが、数学的な裏付けや論理的な説明を聞くまでは、間違った行動こそ真と思えてしまう。渋滞はそもそも個々が集合した時の現象であるからこそ、個人の利益を優先するのではなく、集団の利益を考えることが大事であるということも説明されると納得する。しかし、やはり渋滞学を一部の人だけが知っている状態では、コモンズの悲劇のように知らない人の行動によって集団の利益を得ることはできない。いかに渋滞学を常識にしていくかがとても重要であるが、逆説的な行為を奨励するということなので、とても難しいと感じた。渋滞学が常識になる未来を期待したい。高校時代、数学が好きだった人間の一人として、数学が社会課題の解決と直結していることを感じることができて、とても嬉しかった。(工学系研究科・博士課程)
◆ 「ある問題と対面したとき、偶然的要素と必然的要素に分別し、そのうち必然的要素に関しては適切な知識を適用することで解決策を提示することが出来る。」というメッセージは印象的であった。そして学問的な探求において以上の事が言えるのはもちろん、日常生活あるいは長いスパンの人生においても同じことが言えるのではないか。つまり自分の問題・悩みと対面した際に、偶然的要素(=自分ではどうにもならないこと)と必然的要素(=解決可能なこと)に分別し、後者に関して行動を起こすことで、効率的に問題解決を図ることが出来るのではないか。私は得てして両者の区別をつけられず、自分ではどうしようもないことにかかずらい、解決可能な要素を見過ごしてしまいがちであった。今回の講義を聞いたことで少しでも問題の解決がスマートになるのではないかと思う。(文学部・4年)