菅豊

(東洋文化研究所 民俗学)

「フィールドワークでは偶然は避けられない:無形文化遺産という言葉が生み出した幻影」


予習文献

  1. 菅豊,2013『「新しい野の学問」の時代へ―知識生産と社会実践をつなぐために』岩波書店.
  2. 菅豊,2017「幻影化する無形文化遺産」飯田卓編『文化遺産と生きる』臨川書店.

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

◆フィールドワークを通じて「現実」を作り上げるというお話があったが、これは近代の日本文学研究における注釈に通ずるものがあると感じた。実際に現場に行っても、鳥の眼や神の視点から見た客観的事実というものはほとんど存在せず、目に見えるのは事実とは限らない現実の欠片でしかない。当時のコンテクストを調べようとしても、現代に残るのは事実らしき過去の断片に過ぎない。文学部における研究ではしばしばそのような困難にぶつかるのだと思った。

菅先生の実際のフィールドワークのお話は大変興味深かった。もっと掘り下げた深い内容も伺いたかったが、1時間弱の講義の中でも先生の牛や闘牛への愛を感じた。透明人間や壁になって調査しても研究として不十分なので応用民俗学というものが生まれたのだと思う。しかし、いくら現場に入っていったとしても学者という立場は消えず、常に共同体の中の異質な存在として認識されることは避けられない。そのような状況の中でどのように振る舞うか、つまり、研究対象との距離というのが問題になってくるのではないかと感じた。歩み寄らなければ心を開いてくれず、内情が分からない。学者としてのありのままを全て伝えても歪曲されて受け取られる(利用される)こともある。その塩梅が難しく、研究者には絶妙な匙加減が求められるのだと思う。フィールドワークの難しさを垣間見た授業だった。(文学部・4年)

 

◆先生が挙げられた偶然性の例は非常に興味深く、自分の実感としてもよく分かる気がした。GWの問題提起は、研究成果を得るためにどの様なスタイルをとるかという点と、対象に関わる人間としての責任という二点が含まれていたように思う。一点目について、理系の学生が研究者としては対象に介入するのは望ましくない、と言っていたのが興味深かったが、社会現象の研究手法として、傍観者に徹すべきというスタイルもありうるとしても、対象に関わることで新たに見えてくることや、介入の結果生じてしまった不確実な状況への視点も、社会現象への知見として意義があると思い、だからこそフィールドワークでどの様なスタイルを取るかは個々の研究者が各々選択すべきだと思った。一方二点目の研究者の倫理規範については、研究成果への焦りと倫理規範を順守することに葛藤があるとしたらその葛藤を解消するよう制度や待遇を変えることも考える必要があるように思う。(法学部・4年)

 

◆ディスカッションの際には、研究者の立場に徹するのであればフィールドに干渉するべきではない、といった意見が周囲から散見されたが、それは講義の筋、核のようなものを踏まえておらず自分にはやや的外れなものに思われた(偶然にどのように対処すればよいのか、という問にどのように答えればよいのか混乱した学生が多かったのかもしれないが)。個人的には、先生が地震という予期できない災害を転機としてinsiderの立場へと転換していったことは、自身にとっても被災地にとっても一種の克服であったのではないかと感じられた。inside/outsideのあり方をどちらも否定できず困っていた自分としては、最後のまとめの「研究はそんな崇高なものでもないし日常から切り離せない」という言葉が1つの答えになった気がした。(文学部・4年)

 

◆今回の講義では少なからず東大生というものに失望させられた。菅先生の講義の題目は「フィールドワークでは偶然は避けられない」というものであり、講義内容自体も、先生自身がフィールドワークで最善の道を探りつつも、予測できない不確実性に翻弄されたことを極めて誠実に語ろうとしたものだったはずだ。それに対しグループワークでは、「そもそも~すればあのような事態にはならなかった」「というかフィールドワークの「対象と関わる」という方法自体が学問とは言えない」、などの発言が散見された。私はそれらの発言から、問題を民俗学に、また今回の事象に限定させて、自分にもそのような問題が起こり得る可能性を排除せんとする意識すら感じた。しかし実際「偶然に翻弄されること」は、フィールドワーク・民俗学に限定できるものなのだろうか。決してそのようなことはないだろう。というかむしろ、そのようなことが他の学問、ひいては人生ではありふれている。民俗学と違い人との関わりが極めて薄く、「必然」を積み重ねて結果を出す科学でさえ、核兵器による大量殺戮という「偶然」を導き出してしまったのだし、さらに私たちの人生は「偶然」犯してしまう過ちに溢れていて、それと生涯付き合っていかなければならないはずだ。それに対して外部から「~しなければ良かったのに」と言うのは簡単だが、それが人間として取るべき態度だろうか?私たちは他者の犯した過ちに対しempathyによって処しなければならないし、また自己の過ちを常に自覚しつつ行動を修正していくというのが、結局のところ学問上での、あるいは生きる上での誠実さではないだろうか。今回の講義においては、東大生の発言にはまるで自分の人生には一つの汚点もなかったしまたあってはならない、というような驕りすら見え、それと対照的に民俗学という学問の誠実さが浮かび上がっていたように思う。(文学部・4年)

 

◆今回は、研究とは高尚なものではなく日常と連続したものであるというお話が印象的だった。グループワークで「研究者は壁になった方が良い」という意見が出たのは、先生が学者として山古志に出向いて、学者として動物愛護や無形文化財の概念を持ち込んだ結果、話がずれ、ずらされ、混乱が生じたということが問題視されたことによると私は考えるが、動物愛護や無形文化財の概念が山古志に持ち込まれたことと先生が学者であるということは、本質的には無関係なのではないか。となるといよいよ、研究とは何なのか、民俗学とは何をすることなのか、といった疑問が尽きない。私が参加したグループに「ある文化が消えゆくのであれば、それを見つめるのも研究の姿勢のひとつ」という意見があり、そのような見方も決して否定されるべきものではないだろう。守るべきものとは何なのか、ひいては人間の営みとは何なのか、頭がぐるぐるとかき混ぜられたような回であった。(文学部・3年)