◆ この授業を履修している一つの理由である回であったが、非常に実り多いものだった。鈴木先生の紹介された九鬼の思想は偶然性を肯定的に評価するもので、偶然による「遭遇」が豊かさを生み出すという論に基づいたものであった。一方それと真っ向から対立する論をスピノザは唱えていて、その必然主義によれば私たちの生は神(=自然)によって決定されているという。一見スピノザの思想は一種息苦しく、個人の努力・達成を認めない冷たいものに思える。しかしここで九鬼の論を再考してみると、偶然概念は「あってもなくてもいい」ことであり、さらに生においては「ない」ことが大半なのだ。(それを九鬼は稀有と言った)そのとき自分の人生においてどうやら「遭遇」はなかったようだと感じる時、九鬼の哲学は絶望的なものになってしまうだろう。自分が頭脳明晰であると信じていた生徒が東大に入学し、自分など凡俗で、世の中には信じられないような家庭環境で英才教育を受けた秀才が居るのだと知ったとき、自分にそのような「遭遇」がなかったことを嘆くことしかできないのだろうか。スピノザはそれに対して一つの救いとなるだろう。たとえ自分が世界で一番頭がよくなくとも構わない(それは一種の「宿命」だ)、自分の持つものをそれと認めて、人生の荒波を「サーフィン」していこう、生きていることの意味がなくとも生きていける、スピノザはそのような事を言っているのではないか。(文学部 現代文芸論・4年)
◆ グループワークでは自己達成や自己を中心において、偶然性概念の必要性について議論していた。それはどこか当たり前の感覚でもあった。しかし、グループワーク後の先生の解説により、スピノザの必然主義の視座は自分たちが議論していた視座とは大きく異なっていることを実感した。また、それと同時に、人間は自然の中の一つの要素として存在するに過ぎないという立場に立つことの困難さを感じた。人間は個人の主観からものごとを見てしまう生物であるように思う。サーフィンという例えで示された必然主義は理解できそうな主義ではあるが、現代社会は個人が重要視される風潮があることを考えると、スピノザの必然主義は時代が進む方向とは逆の立場であり、どこまで受け入れられるのかということに疑問を持った。成功、失敗という観点ではない人生の捉え方に関しては非常に可能性を感じた。(工学系研究科 都市工学専攻・修士2年)
◆ 九鬼周造は、19世紀後半から合理主義への反動として生まれた生の哲学の潮流の中で生の論理学を唱え、個体の実存を考える上で、偶然性を考慮した哲学を展開した。これに対して、スピノザは、この世界全体としての神の視点から、全ての因果関係を必然的なものとして捉えていたが、この立場が非人間主義と呼ばれた。グループワークでは、成功/失敗の観点から偶然/必然をその都度捉え直す意見が出されていたが、これはいずれにせよその観点を持つ個体を前提とすることから、やや偶然性によった意見であった。個人的には、偶然/必然はどの視点に立つかの問題で、基本的には両立するように思われる。卑近な例で考えると、宝くじの1等当選者は日本全体でみれば必然的に存在するが、当選者にとっては偶然当選することになる。おそらく、偶然/必然よりもむしろ、個体/全体のどちらの視点に立つのが哲学にとって重要なのかをまず考えてみなければならないだろう。(文学部 哲学・4年)
◆ スピノザにおける虚構の位置づけ、またいわゆる科学的客観主義や確率論のようなものとの差別化など、もっと聞きたかったという思いは拭えないが、全体としてとてもクリアな見取り図を提供してもらった。九鬼などの向こうを張り、敢えて〈偶然性〉抜きで思考しようとする講師の姿勢には強い刺激を受ける。また、個物の「自己組織化」についてのスピノザやドゥルーズの喩え、特にドゥルーズのサーフィンというイメージはほんとうに喚起的だと思う。スピノザの考え方には、人間が蚊帳の外に置かれているのではないかと感じさせるような過激さがあり(そこがグループワークでも批判された点なのだが)、筆者はむしろこのサーフィンを手掛かりに、彼の〈必然主義〉、あるいは非人間中心主義を考えていきたい。(人文社会系研究科 現代文芸論・博士課程)
◆ 人間が偶然という概念を必要とする理由だが、人間が共に生活を営みお互いを判断するのに有意義であるからだと思う。我々は人に接する際、偶然と必然という二元的な捉え方をしている。ある人が社会的に成功すれば「本人が頑張った当然の結果か、それともたまたま成功しただけか」と、テロ事件や暴力にあえば「やられた本人に原因があるのか、とばっちりを受けたのか」と考えてしまう。たしかに、こうした発想は人間的で不明瞭なものである。その一方で、人間の関係に張りをもたらしてもいる。これこそが必然の対概念としての偶然概念の大きな機能だと思う。また鈴木先生が最後に言及した主体の「選択」に対する疑念は、行動経済学の講義での合理的主体の修正や、渋滞学の講義での道路設計の変更による人の行動の変化と繋がる。人間の意志や決定が状況に大いに規定されているという視点は、「偶然性」を考える上で一つのキーになるのかもしれない。(経済学部 経済学科・4年)
◆ 確立した個などの、われわれが前提としている概念すらも否定したところに立つスピノザの考えをすぐに受け入れるのは難しく感じた。と言っても、これは生活ベースのかなり表層的なところでの感覚であり、そういった世界への感覚(と今日のわれわれが受け取っているであろうもの)とは別に、この世界のありようをもっと客観的・フラットに考えようとすれば、スピノザのような必然にのみ満たされた世界のありようというのも、決して否定できるとは考えられない。あくまで、今日生きていくという実践の肌感覚においては、偶然性を肯定した考えの方をわれわれは選択してしまう、ということを考えさせられる回だった。(文学部 日本語日本文学・4年)