長谷川 まゆ帆

(総合文化研究科 フランス近世史)

「近世フランスの女と社会」


予習文献

・長谷川まゆ帆『女と男と子どもの近代 世界史リブレット 89』 山川出版社,2007

・長谷川まゆ帆「オーラルとエクリの間-近世期の「個人の語り」について」草光俊雄・甚野尚志編『ヨーロッパの歴史 I ―ヨーロッパの視点と方法―』放送大学教育振興会, 2015, pp.158-177.

・ナタリー・Z・デーヴィス, 長谷川まゆ帆ほか共訳『境界を生きた女たち―ユダヤ商人グリックル・修道女受肉のマリ・博物画家メーリアン』平凡社,2001 のなかの「新世界――受肉のマリ」87-188頁の部分

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

   「受肉のマリ」のエピソードについて述べる。マリは文字を介して神と交信や懺悔をしたり、息子クロードと遠隔で書簡のやり取りを行なっていた。ここで、マリのこうした行為は、書くという行為に特殊な、「自己の内面の奥深くにある思考や感情の核心に迫り、これを現出させた上で、目の前にいない相手にこれを伝える」ものとしてのコミュニケーションであるといえないか。

    神との交信において、そのメッセージを形成するにあたり、例えば会話であれば即時的な応答が求められることになるが、書く行為には時間などの制約が無い。このため、神への言葉や懺悔といった熟慮を必要とするメッセージを、じっくりと文字にすることができる。また、書く手段を取ることにより、目の前には実在しない神との交信において、「孤独な作業としてのコミュニケーション」という会話ではあり得ない状況を成立させることも可能になる。

    クロードとの書簡についても、家庭において顔を合わせることのない遠方に暮らす親子を繋ぐことができたのは、当時の技術においては書簡であった。そしてこのことは彼らの関係性を、一般的な親子のそれから、内面を開示し合う同志としてのそれへと変質させていたと考えられる。実際、彼らの書簡においては、いわゆる親子らしい日常的なやりとりではなく、自己の内面の葛藤をぶつけ合うような類のコミュニケーションが多く行われている。

    以上に見てきたような書く行為に特殊な性質のうち、他者への伝達の前提としての自己完結した自己の内面の掘り下げ・現出をすることができるという部分は、とりわけ現代的な意義を持つものであり、他の手段によって代替の困難なものであるといえよう。(法学部 3年)

 

    現代において紙の手紙がどのような意味を持つのかについてグループでディスカッションをした。私が手紙を書くシチュエーションとして思い浮かんだのは、「誰かの誕生日のとき、プレゼントに手紙を添えて渡す」「長期の旅行に出かけたとき、旅先から家族に絵葉書を送る」などだ。前者は、手紙が実体を持つという特性ゆえにそれ自体でプレゼントとしての意味を持つ点、後者は、即時的にコミュニケーションができる時代だからこそ時間をかけてメッセージを届けることで発信者と受信者の間の「距離」を強調できる点などが、手紙が現代において重要性を持ちうる部分だといえる。他の学生の意見も概ね、電子的にやりとりするのが日常になっているからこそ手紙に「特別感」を見出しているという趣旨だった。話は展開し、「時代とともに手紙というものが珍しくなってきているが、今後手紙が全く存在しなくなる未来は訪れるのか」という論点になった。面白かったのは、今後は手紙とも電子メール・チャットとも異なる新たなコミュニケーション手段が主流になるのかもしれないという意見だ。このように手紙対電子メール・チャットという二項対立で考えていること自体が、時代という大きな流れで考えてみれば視野狭窄であり、本質的ではないのかもしれないと思った。(文学部 3年)