池澤 優

(人文社会系研究科 死生学・応用倫理センター)

「未来を拓く死者の「記憶」―生死のつながりの視点から―」


予習文献

・池澤優「死者とはだれのことか―古代中国における死者の記憶を中心に」秋山聰・野崎歓編『人文知 第三巻―死者との対話』東京大学出版会, 2014, pp.23-42

・池澤優「死生学とは何か―過去に学び、現在に向き合い、未来を展望する」清水哲郎・会田薫子編『医療・介護のための死生学入門』東京大学出版会, 2017, pp.1-30

・池澤優「死生学とは何か―死別の物語りを中心に」〈医療・介護従事者のための死生学〉2017年度夏期セミナー、法文一号館25番教室、2017年9月3日。

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

 今回は死生学についてということで、身近に存在する死について以前から興味があったので予習担当をやらせていただきました。予習を進め、そして実際に講義を聞いてまず感じたことは、思っていたよりもフワフワしていて、理系分野に触れることの多い工学部所属の私にとってはとても難しく、そしてとても考えがいのある内容だったということです。予習担当範囲だった西欧と東アジアの”死”についての考え方の違いを読んだ時や、グループディスカッションのお題について考えたり議論したりした時、死に対するイメージは、国によって、そして同じ国出身でも一人一人違うイメージを持っているのを実感し、 理系分野でよくある対象の均一化(死生学でいうなら一人一人の“死”についての考え方の個性の無視)が不可能なんじゃないかと感じました。そういった点が、とても複雑で個性的で神秘的な、とても人間らしい側面を映し出しているなあと勝手に思っていました。(工学部3年)

 

 「死」に関心の強い私にとって、今回の講義は非常に勉強になるものであった。私自身哲学を専攻しており、卒業論文を「死」に関するもので書こうと考えているので、本講義も今後の参考にしたいと強く感じた。

 講義は、すでにこの世にいない死者とこの世を生きる者のつながりを明かすもので、これは終活が認知されてきた現代社会を生きる我々にとってみんなが一度は考えたことのある議題だと思う。中でも、死者の記憶には我々に行動を起こさせる力があるという考えには驚かされたものの、確かにそうであるように感じた。例えばお墓まいりの際、あるいは仏壇に手をかざす時、無意識にでも死者に対し何かを語りかけつつ、ある種の決意表明みたいなものをおこなったことがないだろうか。こうしたことは、未来を切り開く力を死者から授かるとともに、次の行動へと我々自身を誘う役割があると考える。本講義で学習した内容は卒論の道しるべとなる気がしている。(文学部4年)

 

 「死者とのつながり」というテーマで物事を考えた時、やはり死者というのは生きる人の都合のいいようにあるに過ぎないと考えていた。自分にとっての死者への思いは一方通行であり、私がいくら死者を思っても死者が私を思うことはないし、「死者が生きる者にアプローチしている」という考え方はあまりにもスピリチュアルで空想的なものだからだ。しかし、そのような、スピリチュアルで空想的な思いや死者への断片的な記憶というのは、生きる人にとって死を認知するのに重要なキーである生死の往還なのだと感じた。死者と生きる人が対峙したときに、心の支えになったり、足かせになったりというような生きる人への干渉となることは大いにある。死者と生きる人の一対一の「記憶」が構築されたとき、生きる人は死というものを認知し、生死を往還していくのだと思う。
 また、死生学が一部を担う「死の認知活動」というのが、これからどのような主張の中人々の中に入り込んでいくのか生涯教育の文脈でも興味があるので、死生学の研究や、それをどのように人々に広めるかという運動の経過を追ってみたいと思った。ありがとうございました。(教育学部3年)

 死生学は単に「死について」の学ではなく、死を生に伴い、また生が伴うものとして、「死生」を一体として考え、人間が死生をどう理解し対処してきたかについて、人文知を背景に広く考えようとするものであると思った。その意味で、先生の死生学研究は死生学を “thanatology(死の学問)” というよりも “death and life studies” として捉え、人文社会系を中心とする学際的な研究プロジェクトを進めてきたと知った。死生学の一領域である臨床死生学は、臨床現場で実践の知としてはたらく学問であり、医療機関、介護施設や在宅医療の場などで、患者や利用者本人と家族および医療とケアに携わる人々のニーズに応え、死生学が得た知見を医療とケアに活かすことができるようなかたちにして提供しようとする心に惹かれた。(工学系研究科修士1年)

 死んだ死者の記憶により、相対的に、客観的に自分の選択肢が狭まることはあるはずだが、結局はその人の捉え方によってその事実がネガティブに働くかポジティブに働くかどうか(他者の記憶・繋がりが長所になるかどうか、短所になるかどうか)は変わってくると思う。また、捉え方だけでなく、実際に他者の記憶を追随した結果、楽しい!と感じてプラスに取るか、または楽しくない、つらいと感じてマイナスに取る場合とがある。つまり、行為の結果によって他者の記憶は長所になったり、短所になったりすることがあるはずである。
 また、池澤先生が最後に述べた、「人間は忘れやすい生き物である」という言葉はとても印象的だった。忘れやすいからこそ、悲しみから立ち直れることがあり、「時間が解決する」という言葉がある一方、忘れてしまうということは忘れる方も忘れられる方も悲しいことなのではないか、と考えた。(文学部3年)