佐藤 安信

(総合文化研究科 人間の安全保障(平和構築、紛争処理、法と開発))

「難民から学ぶ「人間の安全保障」:新型コロナが問いかけるグローバルガバナンスへの展望」

予習文献

●滝澤三郎・山田満編著『難民を知るための基礎知識―政治と人権の葛藤を越えて』明石書店、2017年

●ジェームス・C・ハサウェイ『難民の権利』佐藤安信・山本哲史訳、日本評論社、2014年

●児玉克哉・佐藤安信・中西久枝『はじめて出会う平和学―未来はここからはじまる』有斐閣アルマ、2004年

●高橋哲哉・山影進編『人間の安全保障』東京大学出版会、2008年

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

・難民との共生のための具体的提案について、受入国と難民者とのつながりの乖離を縮め、よりソフトなかたちで受け入れの土壌を国内に形成する目的で、国内難民者(あるいは技能実習生も対象にしていいかもしれない)を対象にした旅行ツアーを提案した(議論では言わなかったが、個人的には30分くらい参加者と当事者が焚き火を囲んで対話するというのもプログラムに組み込んで、実際に共生することの難しさを痛感してもらう=言語的な壁等のも、重要だと考えた)が、もちろんこの提案には様々な問題を孕んでいる。

 もしかしたら、ツアーを通じて、難民とは相容れないという実感を強める人もいるかもしれない。我々の目的は、難民あるいはそれに準ずる地位、境遇にいる人々が、可能な限り安心して日本で生活できることにあるが、それが本当に正当な理由として永遠に機能しうるかも保障されていない。実際難民の方はそのような交流を望んでおらず、こうした発想は上からのパターナリズム的な融和政策に過ぎないのかもしれない。収益性の欠如から散発的なものに終わるかもしれないし(やはり持続可能か否かはプロジェクトを行う上で重要な指標である)、ブランディングを一歩間違えれば無関心より深刻な結果を招くかもしれない......などと悩まずひとまず行動しなさい、というのが本講義の趣旨であったか。(法学部3年)

 

・今回の講義では自分がいかに難民問題について無知であり、その存在を無視してきたかということを思い知らされた。グループワークの時間では、そもそも日本に難民という他者を受け入れる土壌があるのかということが議論の的となった。日本にも1万人を超える難民申請者がいて、また人種的な他者という共通点を持つ多くの留学生や移民や外国人労働者がいるにもかかわらず、そのような多様性を無視して日本に「単一民族」のラベルを貼り付けてしまうような価値観は大いに問題だと感じる。このような境界線の意識を取り除くことができれば、日本人側のアイデンティティが揺らがされるような不安も軽減でき、難民側の孤立も解消できるのではないだろうか。難民問題に関する法整備や発信を加速させることで企業や大衆の意識に難民の存在を昇らせて、同じコミュニティを形作る存在として共に社会に貢献していけたらよいと考える。(工学部3年)

 

・難民の問題を考えたときに、私は難民の共同体の閉鎖性を深く考えなければいけないと思っている。母国から離れ入国してきたことを考えると、まず言語の大きな壁が存在する。わからなければ繋がれないし、居心地もわるい。だからやはり、同じ境遇の、理解しあえる人々と固まり、その文化の中でひっそりと生きていく選択をしなければいけなくなる。そうした点を考えると彼らからの積極的な支援要求はあまり期待できず、彼らを救うためにはこちら側からの積極的なアプローチが不可欠である。ただ支援策や金銭を多く提示するだけでは確実な支援とは言えない。そこを改善するためには、双方向に繋がることのできるITの活用は必然的に希求され始めると思うが、それをどれだけ日本の政府が柔軟に受け入れることができるのかというのも興味がある。昨今のコロナ政策を見ていると、先進国と呼称している国とは思えないような、非効率的なアナログ路線を地で行っているような印象を受けるからだ。こうした現状と権力側の認識の溝を埋めない限り、次のステージでの支援策を練るのは少し難しいと思う。(文学部4年)

 

・それまでは単に戦争のない状態を平和と指していたのを、社会正義が果たされて飢餓や貧困も無くなった状態を指す「積極的平和」や、飢餓や貧困の存在を指す「構造的暴力」などの新たな概念の提唱がなされたことは1つの重要な転換だと思った。そして積極的平和と人間開発など「人間の安全保障」という考え方とその取り組みが益々進められるべきだと考えた。今回は難民の自立支援のためのプロジェクトを考え議論したが、これもその一貫で地続きなものなのだろうなと感じた。例えば日本で、そして個人(自分)が、日本で周りにいるような難民のために何ができるのだろうかと考えたときに、もしも自分が難民となって他国にいるような状況になったらと想像することが1つの足がかりになるのかなと思い、難民同士(同じ言語圏や同じ国籍国出身)を引き合わせたり連絡を取れたりなどコミュニティー形成の手助けが必要なのかもしれないと考えた。他にも様々な案や議論が必要だとは思うが、とにかくこうした個人個人が難民のために何ができるか考えることが重要で、こうしたテーマは国という大きな主体だけの問題ではないと今回の講義の中で感じた。(教育学部 4年)

 

・「難民」と聞くと、「弱者」「可哀想」「非力」というイメージが浮かび上がってくるが、マルチステイクホルダーネットワークにおける自立分散型という形を取る新しいグローバル・ガバナンスにおいては難民の捉え方を変える必要がある。難民は複数の主体であり、国家の新たな担い手の一員であり、マジョリティである我々に新しい可能性をもたらしてくれる存在でもある。これは何も難民に限った話ではなく、日本における外国人に対する捉え方とも通底するものである。単一民族神話に支えられた国民国家を脱構築することこそが今求められていることであり、経済の縮小や少子高齢化が一層深刻になる日本社会だからこそ移民や難民の受け入れに対して真剣に向き合う必要がある。日本は難民受け入れ数が非常に少なく、そのことが批判されることが多いが、難民を受け入れた後の支援体制や制度についても準備ができているとは言い難い状況にある。既に300万人を超えようとしている在日外国人の存在をきちんと捉え、移民国家あるいは多民族国家として舵を取らねばならないタイミングが近い将来訪れるだろう。(教育学部3年)

 

・「平和」を単に戦争のない状況ではなく構造的暴力や文化的排除(=恐怖や欠乏)から免れうることとして捉える「積極的平和」概念に照らしたとき、とくに今般のコロナ禍で難民という「人間の安全保障」が脅かされているのだと、講義を通して学ぶことができた。コロナのパンデミックと同様に難民の問題も従来の主権国家の枠組みでは対応しきれないグローバルな問題であり、それゆえに非国家主体が核となる新たなグローバル・ガバナンスへの展望が問われることになる。そこに私たちはいかに関与しうるか。後半のディスカッションではその一端としての、コロナ禍における難民の自立支援の可能性について議論した。難民個人に教育によって言語や職業のスキルを身に付けさせることで日本社会への適応を支える個人主義的なエンパワメントも大切かもしれないが、<教育>の論理は生活・生存保障に対して即効性や確実性を欠くうえ、それが「日本人」への同化を迫る圧力に転じたときには彼らのアイデンティティーを脅かしかねないという限界がある。すなわち、これだけでは構造的暴力や文化的排除は克服されない。それに対して、グループが最終的に提案した「SNS上での難民ネットワークの形成支援」というプロジェクト案は、難民が自分(たち)自身の文化やアイデンティティーを含むありのままの存在を承認しあう<居場所>になりうるものであるとともに、当事者同士で生活を支え合ったり日本人を含むさらに外部のコミュニティーへとつながりを拡げたりすることで、より確実な生存と安全を保障する基盤にもなりうるものである。(教育学研究科 修士1年)