●東京大学文学部広報委員会編『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』集英社新書、2020年
●小林秀雄『人生について』中公文庫、2019年。終章「信ずることと知ること」
・情報化社会の中では個人も情報として伝わる。SNSなどで自分自身で自分の見せたい側面を切り取って発信したり、メディアや人づてなど直接見聞きする以外の方法で人や物事を理解することも多い。小林は小説家に対して「自己宣伝の栄える」ことに警鐘を鳴らしているが、小林の解釈に合わせると現代は一般の人も自己宣伝を積極的にし、己を失う時代だと言える。発信し表現する場が多く、己を失う人が多くなり、自分自身も見聞きするものも表層的になることが現代の不安に思えた。
そんな中体験ではなく経験として不安に向き合う、すなわち「不安に身を横たえる」ことをするには、見せている自分・見せていない自分両方に自覚的になって己を取り戻すこと、また人や物事を見聞きした情報以外からも知ることで不安を経験できるまで有機的に実体化することの両方が必要ではないか。(教養学部4年)
・本日の安藤先生の講義は、わたしが最近ずっと抱えてきたモヤモヤとした命題に、明瞭な輪郭を与えてくれる清々しい講義であった。わたしたちは日々、新聞・テレビ・インターネット・SNSなどが与える大量の情報に直面しながら生きている。食卓に座っているだけで食物が配膳されるようなものである。ある程度までは楽でいいけれど、お腹いっぱいになってしまえばもう煩わしくなる。けれども、それでも食物は絶え間なく運ばれてくる。こうした、情報が氾濫する世の中において、人々は「選択肢が多すぎて」不安になっているように感じる。何でも選べる時代であるからこそ、途方に暮れてしまうのだ。文脈は違えど、サルトルの有名な言葉「人間は自由の刑に処せられている」を思い出す。そんな時、小林秀雄のいう「不安に向き合い、表現し、責任を持つこと」というのは、現代社会を生き抜くための処方箋であるかのように目の前に現れてくる。不安をただ反映し、SNSの海に放つだけではきっと永遠に不安のままだ。そうではなくて、沈思黙考、自らの不安に向き合い、責任を持ちつつ表現をすること、そこに不安から抜け出るトンネルがあろう。そしてそこで重要になるものこそ、安易な「答え」という幻想に惑わされることなく、答えのない問いに果敢に挑戦してゆく知的好奇心・知的忍耐力、いわば哲学や文学の持つ「人文知」なのであろう。
日本文学における「転向」の時代や、ヨーロッパにおける戦間期のように、不安が社会を覆ったときにこそ「知」そのものの意義が改めて問われてきた。そして人類は、「知」そのものを深く考えることにより現状に挑戦し、少しずつ不安から抜け出ていったように思う。人類の歴史とは「不安との対決そのもの」であるとも言えようし、この表現自体、多分に「歴史的思考」という人文知を援用しているのである。(社会学専修課程3年)
・自分の言葉を持ち、自分の気持ちを自分のやり方で表現することが大事というメッセージだったが、これには少し考えるべき点があると感じる。というのは、人は完全に自分で言葉や思想、考え方の論理体系を産むことは全くなく、他人(親や、友人や、教師など)の模倣や、反面教師、周囲の人々との交流によって形成される。つまり、考えそれ自体に独自性があるわけではない。では個性とはなんなのか考えると、これは様々な考えの集合体だと思う。つまり、一つ一つはオリジナルなものは無いが、その組み合わせは人それぞれなのではということである。SNSの問題点は字数の制限にあると感じる。限られた字数では考えの集合体のどれか一面しか表現できない。だから他の人や社会の思想・雰囲気を反映してるにすぎないと感じてしまう。また、SNSの投稿一つでは、それが述べようとしている事情についても、その一面しか述べられていない。なのでSNSなどにより大量の情報と接して、不安や孤独に襲われるという問題への対処策の一つとして、その人の考えをより深く聞いたり、またその事象を多面的に捉えたりすることで、深い理解をすることで不安や孤独が少しは解消されるという考えを持った。よく知らないから不安であり、よく知らないから孤独なのだと思う。(農学部4年)
・情報化社会の進展には、「不安」を増幅させるベクトルと、反対に抑制するベクトルがあると考えた。言語を単なる情報処理の道具と見なす風潮もあるなかで、個々人の経験や直感のリアリティの裏付けを喪失した「不安」の言葉が無批判に拡散された場合、それを受け取る側は社会的風潮としての正体のない「不安」に際限なくさらされることになる。しかし一方で、小林秀雄も言うように、言葉は他者の不安をただ「反映」するだけでなくより主体的に「表現」する手段としても用いることができる。情報化社会においてもそれは同様である。たとえばSNSにおけるハッシュタグの機能は、まさに個人的な「言葉」やそこに「表現」される不安のリアリティを他者と分かち合い、相互理解を深めていく手立てとしても使える。それは結果として「不安」への有効な対処策ともなりうるだろう。情報化社会のなかで「不安」とうまく付き合っていけるか否かは、「言葉」の本質を忘れず、自他の「言葉」といかに向き合うかという我々自身の「覚悟」に懸かっているのだと思う。(教育学研究科 修士1年)
・最初は言葉を誠実に扱うことと不安とがどのように関係するのかわからなかったのですが、個人と社会という領域を考えたときに、社会の方から流れ込んでくる不安に対してその不安を反映する媒体に成り下がるのではなく、自分自身の中にある不安を表現するべきなのだという説明を受けて納得することができました。現在はSNSなどを通じて自分が生活しているだけでは気付かなかったような不安も気付けてしまいます。それは危険に気付けるという意味では良いかもしれませんが、本来抱かなくてよかった不安もつられてなんとなく持ってしまうというマイナスの側面もあると感じています。そんな状況の中で自分自身の中にある不安と向き合い、言葉に誠実に表現することはこのようなつられてなんとなく持ってしまう不安と自分が本当に抱いている不安とを区別して自分自身に気付かせてくれるのではないかと思いました。
また、個人的にとても興味深く思った意見が炎上についての分析でした。先生が体験から経験へ、経験からキーワードへとおっしゃっていましたが、その誰かにとって特別な意味を持つキーワードをぞんざいに使ってしまうことから炎上が起きているケースが多くあるのではないかという分析でした。特に字数も制限されている現代ではその言葉への意識の違いがより大きく見えてしまうのではないかと思いました。(法学部3年)