●堀江宗正編『現代日本の宗教事情〈国内編I〉(いま宗教に向きあう1)』岩波書店、2018年。【争点4】日本人は他宗教に寛容なのか?
●ヴォルテール『寛容論(古典新訳文庫)』斉藤悦則訳、光文社、2016年。第4章、第22章
・「寛容を押し付けるのは不寛容だ」という主張は、ある程度妥当性を持った批判である。なぜなら、何かを押し付ける行為は、自分の主張を他者の納得のないまま無理強いすることであるから、「押し付ける」という行為自体が、不寛容を内包している。つまり、寛容の押し付けの正当化は、宿命的に自壊的である。
寛容と不寛容をめぐる絶え間ない議論の応酬には、自ら「寛容」を標榜する者にしろ、それを糾弾する者にしろ、その根底に自己絶対化のまどろみが見られる。絶対化が招聘するのは、一重に実力主義的秩序である。仮にそれを唱えるなら、彼は自らをしてその秩序に服さしめる義務がある。自己の絶対化を許容するとは、自己の破滅的結末をも受け入れることにほかならない。「それでもいいんだ!」と開き直るのは、あまりに幼児的な革命願望である。
とすると、まず目指すべきは、自己絶対化の瓦解である。絶対化を瓦解するということは、あらゆる命題が永遠に未完成であり続けることの承認であり、そうした自他への消えることのない可謬の眼差しが、この議論の出発点に据えられなければならないだろう。(法学部3年)
・宗教学から見た様々な寛容/不寛容に関する知見を得られてよかった。先生が一貫して、他者に不寛容な態度を取る集団を排除する時点で寛容とはいえない、という態度を取っていらしたことが非常に印象的で、ヘイトスピーチなどについて「ありえない」と切り捨てることを正しいと思って相手を想像してこなかった自分を反省した。また形式的寛容と思想的寛容の分類はわかりやすくモヤモヤが晴れたように思った。
寛容が必要になる場面もいくつかに分けられると思うが、単に対立したいくつかの意見がある場合には、むやみに相手の意見に干渉せず相手のことを理解できずとも共存する形式的寛容を実現すべきだ。一方で、相手の存在が自分に不利益をもたらしたり、ぶつかりあってしまう場合は対話して互いに少しずつ歩み寄ることが「寛容」といえるのではないか。どちらにせよ、共存には不快感や痛みが不可欠なことを我々はもっと当たり前にしていく必要があると思う。不寛容の出所を考えると宗教的教義に加えて嫌悪感が挙げられる。自分の嫌悪感に向き合うことで自身の立場を相対化し、よりよく相手を思いやることができるのではないだろうか。人々の余裕がなくなる不安の時代にこそ、自分の感情を見つめなおして他者への想像力を持ちたい。(工学部3年)
・「寛容を押しつける」と言っている側は本当に「寛容を押しつけ」られているのかということがまず疑問に思いました。「押しつける」というワードは上から下にというニュアンスがあると思いますが、大体において寛容を押しつけられていると主張している人は(少なくともそのトピックにおいては)マジョリティである場合が多いように感じます。マジョリティとマイノリティの境が明確でない場合があることは確かですが、明確に権力勾配がある場合もまたありますし、マイノリティへの差別というのは実際に存在を脅かす力があって本来法的に規制されるべきことであり、それへの糾弾というのは寛容を押しつけるとは言えないでしょう。そう考えると寛容は個人の態度ではあるのですが、社会的・法的な制度による差別からの保護を絡めないと実現できないなと思いました。(文学部4年)
・寛容とは、結局のところ、他害をどこまで許容できるか・どこまでを他害と捉えるかという主観的なハードルの話に過ぎないのではないかと感じた。宗教戦争で残虐な殺人・虐殺が頻繁に起きていた時代なら、「好ましくない他者を許容するべきだ」という、一般的正義としての寛容を説く議論は随分と説得力を持っただろうが、現代においてはそもそも他害性があるかどうかが微妙な事柄が多いので、寛容であるべきかは個々人で判断が分かれる事柄が多い。
つまるところ寛容さとは、個人個人がどこまで他者を許せるかという主観的な価値観のことであって、他者に押し付けるなんてことは不可能だ。
不寛容な価値観を持つ人の価値観を是正しようとする試みは、干渉という性質を持つのだから、もはや寛容か不寛容かというレベルの話ではなく、その干渉が個人の権利自由との関係で正当か否かという視点で捉えるべきだ。気に喰わない相手をどこまで許すべきかという話と、個人の価値観への干渉がどの程度まで正当化できるかという話は全く別物だ。「寛容を押し付けるのは不寛容だ」とか言うのは、他者に気を使わず好き勝手に振る舞いたいだけの愚か者の詭弁にすぎないし、寛容・不寛容という文脈依存的で曖昧な定義を使うから話が混乱するのだと感じた。(法学部3年)
・「寛容の押し付け」という言葉が見られるのは、二者の異なる意味あいの寛容の対立があるときだ。一方の寛容に沿った思想を受け入れることは、その思想が多数派であり、社会全体の秩序を保つためといった大義名分があったとしても、もう一方の不満や不安を悪化させ対立を温存するという点で最善とはいえない。よって、二者択一の寛容ではなく、他者の価値観や思想が完全に変化することはないという前提のもとで、いい意味で深入りせず、折り合って生きていく点を模索して新たな寛容の在り方を見つけることが必要だ。この点で、一方の寛容を押し付けることはやはり不寛容なのだと考える。
日本に住む外国人の問題でも、外国人が尊厳を保って不安なく生きられることと、日本人に不利益が出ないということは、本来対立しないはずだ。条例の事例を見ると、外国人をヘイトスピーチから守ることをして、日本人差別を容認することではないし、外国人が日本人に悪意を向けていいという話ではない。安易な二者択一の寛容の選択に持ち込むこともまた不寛容なのだと感じる。(教養学部4年)
・「寛容であることを押し付けることこそ不寛容である」ということについてのグループディスカッションをする中で、寛容であるべきである姿勢の方が一見合理的に社会は回るはずなのにそれが往々にして為されないのは一体なぜなのか、という問いについて「人間は非合理的な側面の方が一層強い生き物」であることを再認識するに至った。特にそれは、目下コロナ禍のような漠然とした不安に覆われるタイミングにより一層強くなる傾向にある様に思われる。社会の合理性よりも、自分という存在に対しての居心地の良さ、悪さ、を主な判断基準にし、鬱屈した社会の空気に対してのある種風穴ともなってしまって居る様な(それが正しいものか否かはまた別として)言論に吸収される、そういうところから生まれる奇異な現象が今年に起こった事例は、たくさんあげられるはずだ。それを踏まえ思うのは、人間は「寛容である必要性」を理性的に学び身につけてきたのであり、平時はある程度の均衡を保つことも可能だが、緊急時にはその脆弱さが垣間見えるのだということである。(文学部4年)
・「寛容」という言葉はどこか「情」や「人間味」を感じさせる音の響きを持っている。広辞苑でこの言葉の定義を調べてみると、3つ目の意味として「異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと」という定義が現れる。こうした社会的・政治的な定義に着目して、「寛容は不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いを考えてみたい。寛容あるいは寛容な集団にとって不寛容あるいは不寛容な個人は「異端」であり、そうした異端に対して寛容は自由を「認める」のである。この「認める」という表現は「認めない」ということをしないという意味を言外に孕んでいる。つまり認めないということもできるがそれはしていないという点において、異端は寛容によって居場所を「与えられている」のであり、そうした居場所は寛容にとって「不利益にならない限りにおいて」与えられ続けるのである。裏を返せば少しでも不利益になった瞬間に寛容は不寛容に対して不寛容にならざるを得ないのだとしたら、それは「情」や「人間味」とは幾分か掛け離れた貧困な寛容概念であるように思われる。多少の不寛容に対して不寛容にならないという態度を示すような、「寛容ならざる寛容」が重要であるように思われ、そしてそれは自分が変わる、あるいはその結果傷つく可能性を覚悟するという「情」や「人間味」にこそその中核があるように思われるのである。(なお、「情にほだされる」という言葉遣いはまさに寛容ならざる寛容によって自らの行動が変容している様を示しているのかもしれない)(教育学部3年)
・今回のテーマは、寛容と不寛容を巡る議論についてでした。近年、特に注目される言葉であろうと思います。日本人は無宗教だから寛容である、という言説がいかにいい加減なものであるか、よく分かりました。グループワークでは、形式的寛容と本質的寛容について活発な議論が交わされましたが、とても参考になります。寛容であることが正しいと思われがちな世の中ですが、寛容という言葉自体がとても様々な含みを持っており、寛容であることを押し付ける不寛容という一見矛盾のように思われる文が成立してしまうのはとても興味深いです。寛容であることが正義とされ、寛容でありたいと皆が思っていますが、果たしてそれは可能なのか、考えさせられました。確かに、超越的な第三者が仮に存在すると仮定すれば、寛容であることは可能でしょう。あらゆる自然現象と同様に、この世界には事実が同じ厚みを持って存在しているだけだからです。ただ、私達は見ることも聞くことも知ることも限られた、不完全な視野と不完全な思考の限界の中で生きています。個人主義も全体主義も、資本主義も社会主義も、ただの並列された概念ではなく、どっちかに依った意見しか持つことが出来ません。どっちかに依ってしまえば、その時点では寛容ではなくなってしまう。寛容でありたいという思いと、人間という生物が寛容にはなりきれないという矛盾の中に生きているのです。大切なのは知る事なのではないか、と思います。何かを信じなければ生きていけないとしても、逆の立場、自分以外の視点を持っていれば、それを相対化することはできます。常に視野を広く持つ、それが寛容の第一歩であり、中核にある観念のような気がします。(文学部3年)
・今回の議論は特に難しかったが、思ったことを述べる。やはり私たちは前提として、基本的には寛容の理念を尊重するべきだと考える。そして可能な場合に限り、形式的寛容で摩擦や問題が起きないようにする。(以上のことは寛容/不寛容の問題で、現実に物理的な争いや被害が出ることは避けるべきだという考え方が自分にはあるため)。しかし、一方から他方への干渉が起きた時、つまり寛容を求める場面が避けられず現実に生じた時に限り、その個々のケースごとに両者で対話を繰り返しお互いが納得できるような結論が出るまで考えるということを繰り返していくしかないのかなと思った。(寛容/不寛容の問題に関して画一的な、普遍的な正解/不正解を出すことはできないなと思った)。ただこの際に、多数派の有利さの問題や、権力性による攻撃の可能性もあるなど、対話に関して様々な困難がつきまとうため、そうした問題をなるべく解消した上で対等で公平な対話や議論ができるような場を設けることが不可欠であると考えた。そうした配慮の基づいた、徹底した対話の反復こそ自分たちに残された寛容/不寛容の問題への対処の仕方なのかなと考えた。ありきたりなことしか言えないが以上のことを考えた。(教育学部4年)
・「寛容」も一つのイデオロギーでありそれを「押し付ける」ことは「不寛容」だ。こういった言説に対して、いかにすれば説得的な対抗言説を生み出せるか。グループワークも全体の議論もどこか堂々巡りの印象があったが、私はそこから一歩引いて、ではなぜこの議論が堂々巡りになってしまうのか自体を考えていた。それはおそらく、①そもそもの語義・定義からして「寛容」は「押し付け」(られ)るものではないのに、②にもかかわらず自分には「寛容」をが「押し付け」られていると感じてしまうような「不寛容」な立場の価値や前提に、「寛容を押し付ける」という論法に乗った時点で無意識のうちに取り込まれてしまうからではないか。ここからは、結局のところ「寛容」も「不寛容」もどちらの立場もイデオロギーの押し付けであるとすればバランスを取っていくしかないという「バランス論」か、「押し付け」であることに開き直って強硬に自らの立場の正当性を主張しあう「水掛け論」か、そのいずれかにしか帰着しえない。だが、③仮に「寛容」を強く訴えることがあったとしても、それは「不寛容」さが元々押し付けられているところに「寛容」の「押し付け返し」が生じているにすぎない。「不寛容」な状況が押し付けられていないところに、いきなり「寛容」を求める声は挙がらないからだ。それゆえ、本来上記のような「どっちもどっち」論に陥ってはならないのである。そのため、例えばこれまでに述べた①~③を組み合わせる形で、「寛容を押し付ける」という論法をまず相対化することから始めるべきではないだろうか。
さらに付け加えると、このような入り組んだ論理(だけ)では、真に説得的な対抗戦略とはなりえないだろう。「不寛容」の根本にあるのは、理屈を超えた「不安」の感情だからである。そのため、「不安」それ自体を極力取り除く努力(以下嫌韓ヘイトデモを例にとれば、まず日本国内の生活や治安の不安を軽減することなど)や、仮に「不安」でもそれが他者への「不寛容」にはつながらずに済むような社会の制度設計や情報公開(同じく、いわゆる「在日特権」など無いことをわかりやすく説明することで、彼らを排除しようとすることに意味がないことを示すことなど)も、同時に求められるだろう。(教育学研究科修士1年)