清水 晶子

(総合文化研究科 フェミニズム/クィア理論)

「望まない他者との居心地の悪い共生」

予習文献

●清水晶子「埋没した棘」『思想 フェミニズムI—身体/表象—』2020年3月号

●藤高和輝「インターセクショナル・フェミニズムから/へ」『現代思想 総特集=フェミニズムの現在』2020年3月号

●小宮友根「フェミニズムの中のトランス排除」『早稲田文学』2019年冬号

 

 

 

講義後情報コーナー

履修者のレスポンス抜粋

・ジュディス・バトラーの「共生」概念は、「選び取られたわけではない近接性」という言葉で説明されるように、望まない他者との共生を意味する。それは生きていくことに必ず付き纏うことであるから、避けて通ることはできない。しかし、そういった共生を行うことに対して極端な嫌悪感を示す者も多く、その人々に対していかにして共生の必要性を説明するかというのが今回の検討課題だった。私としては、法哲学で学んだ厚生主義と総和主義の立場から説明を試みたい。総和主義においては、利益の対象をどこまで含めるかという問題点があるが、今回はマジョリティとマイノリティからなる集団があり、マイノリティが権利を与えられていないなどの不利益を被っている状態を想定する。まず、気に食わない他者を排除した場合の社会全体の厚生(満足度のようなもの)の総和は、排除された側のマイナスが大きいので、あまり大きくない。逆に、気に食わない他者であってもその存在を自分たちと同等のものとして許容した場合の厚生の総和は、マイノリティ側の被っていた不利益が解消されるのでかなりプラスに働く。マジョリティにとってはそれに伴って自分たちが不利益を被ったように感じらかもしれないが、マイナスをゼロに戻しただけであるから、全体としては総和はプラスに働くのである。(法学部・3年)

 

・多様性についての議論において「役に立つ/立たない」を中心にしてしまうことは多くの人が陥りがちであるが、それはマイノリティを多数派に有利なように設計された価値観に追従させ、さらにはその価値観を内在化させる結果になりかねない。この問題については多数派においても「その価値があるから生きている」ではなく「ただそこにいる」という考え方をもっと浸透させる必要がある。

また、タイフード屋台モデルの消費の話題が非常に印象に残っている。マイノリティの存在を一方的に消費することは、彼らに自分を開示することをせず、彼らを自らの「傷つける/傷つけられる(救う/救われる)」という連帯の外に位置付けるということではないだろうか。連帯の関係は相互に自らを開かなければ成り立たない。現代社会ではシステムの整備が進み感情を動かさずに社会活動をすることを当然だと思うような空気が広がっており、多数派は自分たちに合うように作られた規範の中で動くことで人間関係においても自分を埋没させて「傷つき」から逃れられると錯覚しているように見えるが、そのような埋没は特権であり、本来人間との「共存」はシステマチックに処理できるものではないことを理解すべきである。クィア運動においてマイノリティが声高で多数派にとって不快にもなりうる主張をしたことは、自分を開示しながら消費を拒否する姿勢であるが、エネルギーを消耗するものでマイノリティだけに負担を押し付けることになっているのではないか。ここでも弱さを持つ人が大声で主張せずとも「弱いまま」生きられる環境を作ることが必要とされている。(工学部・3年)

 

・「選びとられたわけではない近接性」と「選びとられたわけではない「多数派」という属性」が不可分なのではないかと思いました。もちろん少数派のほうも自分で望んで少数派になってるわけではないですが(そう主張する多数派もいますが)、多数派は自分という存在に先行してある自分の属性の歴史的・経済的な制約を自覚することに慣れていない、意識しないでも生きていける場合が多いです。ですので「口を閉ざして話を聞け」と言われてそこで初めて多数派であることを自覚し、自分の一個人としての側面ではなく多数派属性としての自分を意識してしまうのではないでしょうか。それに対処する方法として、マジョリティが自らのマイノリティ性を意識することが有用な場合があると思います。私たちはあらゆる時と場合にマジョリティであるわけではないですし、マジョリティ性を多く持つ人であっても一個人として尊重される経験には必ずしも社会の多数派にとって歓迎されない差異も含めて受け入れられるということがあるはずです(トランス女性を差別するシス女性の人生の中でも、女性差別を受けたモーメントも受けなかったモーメントもあると思います)。その経験との類縁性から、自分が多数派である場合でも少数派を受け入れるようにするのが1つのやり方なのかなと思いました。(宗教学・4年)

 

・所属の関係で普段社会学の視点からジェンダーを見ることが多いので、清水先生の講義や他学部の生徒との討論は新鮮味のある話も多く、勉強になりました。「多様性を尊重し、認めることは重要だけれども、その前に今現在迫害されている人々を社会の「みんな」の中に含めるような積極的アプローチが必要なのではないか」というのが講義の趣旨であったように感じます。この意見には概ね賛成できるなと感じました。誰しもが個々人を構成する要素の中に、多数派の側面と少数派の側面を併せ持っていると思います。ただ、その少数派の側面がどの要素に現れるかで社会での生きづらさは大きく異なるのが現実でしょう。誰もがある意味で少数派なのだから、がんばれという自己責任論ではなく、社会としてどのような人が生きづらい社会になっているのかということを汲み取り、その人たちの生きづらさを社会に広めることが重要だと考えます。先生のおっしゃるように「不安を根本的に解決することは難しい」でしょうが、生きづらさを抱える人たちの連帯や社会の再考が苦しい人たちの「今を生きる」支えにはなれるのではないかと期待したいです。(文学部・4年)

 

・本日の講義を聞き、「近接性」と言うバトラーの概念を知った。この概念は、クィア理論のフィールドのみならず、様々な社会的マイノリティを考える上で有用であると思われる。というのも、社会(を存在するものとして考えるなら)に生きる人々は皆須く社会を共有するものであり、それが「望まれたものではない」(=運命によるもの)である以上、「近接」して生きてゆかねばならないからである。近年、反グローバル化の波や保守・排外の空気が社会不安とともに世界中に流布し、ここ日本でも例外なく、「ヘイトスピーチ」の問題などが話題となっている。こうした排外的問題の背景には、「近接性」への無配慮があると思う。皆、この「社会」内において、好むと好まざるとにかかわらず隣り合って生きてゆかねばならない「運命」であるとも言えように、「近接性」への無配慮のために排除と集団の縮小を主張する。それは、表面的な多数派による暴力であるとともに、人間や社会への責任の放棄であるようにも思った。(文学部・3年)