●ダグラス・マレー『西洋の自死―移民・アイデンティティ・イスラム』町田敦夫訳、東洋経済新報社、2018年
●伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』岩波新書、2018年
「ライシテをめぐる問いが突きつけるアポリアは、そう簡単に答えが出せる性質のものではない。解きがたい問いは宙づりにしたままで手放す叙述を、本書はむしろ積極的に取り入れている。読者とともに考えることができれば幸いである。」
力学が多すぎる...というのが率直な感想だった。大中小の力学が、私の周りをぐるぐる回る。宙づりにされたメカニズムが、あっちにこっちに私を引っ張る。一つの惑星に接近せずに、全体の天体を見ようとするけど、気が付けば一つの重力に引き寄せられて、動けなくなっている。地動のはずの天体が、いつの間にか天道になって動いている。
人は、自分の周回軌道から抜け出すことは出来ないのだろうか。衛星から自分の惑星を眺めることは出来ないだろうか。異なる惑星をflybyして、上手く宇宙を観測出来ないだろうか。人の心の重力を、静寂な宇宙的秩序に置換する試みは、牧歌的にすぎるのだろうか。
ボイジャーは、今頃宇宙のどこを飛んでいるのだろう...(法学部3年)
フランスにおいて、ムスリムとの共存が喫緊の課題となっている。ムハンマドの風刺画をめぐっていくつものテロ行為が起きたことは記憶に新しい。こうした状況下で問題となるのが「表現の自由」だ。フランスには「表現の自由」があるから、ムハンマドの風刺画を描くことは自由であると主張されることが多い。しかし、フランスにおける表現の自由とは如何なるものなのだろうか。まず、その獲得経緯を見る必要がある。フランスにおける表現の自由は、アンシャン・レジーム期の圧政から、フランス革命という血みどろの反抗を基礎として獲得されたものであるから、強い保護が要請される。表現の自由は、本質的に二者対立構造を内包するものであり、権力者からの抑制に対する反抗をその性質として孕む。それゆえに、こういった権利が、今、ムスリムなどの社会的なマイノリティに向けられていることについては、その正当性が問われなければならない。社会的マイノリティの宗教的指導者を嘲笑するような風刺画を許容するということは、本来抑圧者への反抗として培われてきた権利を、自らが抑圧者に立つ側として行使するという状況に陥っていることに他ならない。これを皮肉と言わずしてなんと言おうか。そもそも、表現の自由は絶対的な権利ではなく、他者への危害との緊張関係の中で一定の制約を受ける。社会的マイノリティの風刺画を描くことは、そのマイノリティにとって「危害」に当たるだろうか。表現の自由を行使することを自己目的化せずに、権利のあり方を見直すべき時がきているように思う。(法学部3年)
表現の自由と批判のバランスについて、これまで個人の権利を尊重しながら行動や現象のみを対象に批判することが最適解だと考えていたが、宗教はアイデンティティに深く関わっているため宗教を批判することが個人の尊厳を傷つける可能性があるという意味で扱いが難しいと感じた。
ムスリムが現代フランス社会のスケープゴートとなっているという指摘は納得できるものであり、またフランスに限らないことだと感じた。日本においても一目でそうとわかるムスリムは否定的な目で見られることがあるし、在日朝鮮人や外国人労働者への風当たりの強さも日本社会が抱える問題のはけ口になっていると理解することができる。彼らに否定的になってしまう訳の一つには、自分たちの暮らしや日本社会に不満があるからこそ「日本人」とは別軸のアイデンティティも持ち合わせている彼らが、日本社会の問題を差し置いて抜け駆けしているように見えて、さらには日本社会に悪影響をもたらしていると思い込んでしまうことがあるのではないだろうか。授業で紹介された「西洋の自死」内にも移民が欧州で優勢になるという不安が記述されていたが、ここにも自分たちが今抱えている問題を移民たちが無視し、そして悪化させるのではないかという想定が見えるように思う。
我々が外部からきた「他者」を社会に受け入れるためには、我々の社会が元々抱えていた問題と彼らが抱えている問題の両方を、ともに解決していこうと模索することが必要ではないだろうか。(工学部3年)
「過激派」を取り除くことが治安への根本的な解決になるか否かについて「過激派」の定義は取り除く主体によって揺れ動くものであり、その適切な解を見つけるのは困難だと思うので、「取り除く」行為は踏み外せば取り返しのつかないことになるのではないか、と現在の自分は考える。だから「排除」という方策はあまり効果的ではなく、むしろより溝を作りかねないのではないか、と危惧している。一方でディスカッションの中にはやはり明らかに人々の公共の福祉を阻害する「過激」な行為は存在することが指摘され(私の考えの中では意図的に取り外してしまっていたものだ)、その部分を刈り取ることはやはり必然であるという主張がなされつつ、またそれは表面的な行為でしかないことも同時に指摘されていた。こうしたことはニュースになるたびに、最適解が見えにくく難しい問題だと感じる。その中で共生していく方法を見つけ出すには、理想論にはなるが、私は「宗教」だから、「人種」だからというフィルターでの理解から離れて、その人の本質を理解しようとする姿勢を持ちたい。「他者」のことを完全に理解すること、その人の全てになることは不可能であるが故に、その人の周辺に浮遊する属性を使って、自分の中で解釈できるようにカテゴライズしてしまいがちになるが、そうすることで捨象されてしまう理解に近づくための本質が抜け落ちてしまうのだろうなと思うと、個人として対峙して見つめようとする態度は、難しいけれど意識的に保持し続けたい。(文学部4年)
多文化主義と言う言葉について考える事をを自身が昨年フランスを旅行した時に感じた事を交えて話したい。
昨年夏休みを利用してニースとパリを観光した。その中でダイバーシティといった観点で見た場合感じた事が以下の2点である。
① 避暑地ニースを訪れている人を見た場合ほとんどが白人であり、黒人がほぼ見当たらなかった。
②パリ市内の地下鉄の従業員はほとんどが黒人であった。
そして特に後者が非常に印象的で、それが何故か調べたところフランスの過去の植民地政策の歴史及びナイジェリアとの複雑な関係がある事がわかった。実際にパリ観光について下調べをしている際に、パリ市内はカタツムリの殻状に1区、2区、、、といったように数字が増えるにつれて周辺部へ行くように配置されており、区につく数字が大きいところは黒人が多く、治安が悪いので近づいてはいけないと注意喚起する情報サイトが多かった。つまりこれらを踏まえると多文化主義という名の下に黒人と白人が同居しているように見えて、実は融和は全く進んでいないように感じた。かといって政府主導でこれらをごちゃ混ぜにする必要があるかというと、あくまで理想が多文化主義の元に優劣が存在せずバランスよく同居している状態であり、現実としてはそれらの実現は非常に難しいのか、そして彼らがそれを望んでいるのかというと必ずしもそうではないのではないかと感じている。(文学部3年)
ライシテ原則を一種の正当化論理とするムスリムフォビアが蔓延るフランス社会において、イスラーム教徒との共生のためには何が必要だろうか。まずはライシテ原則自体が持ちうる宗教的偏向性に自覚的になることが必要である。元来ライシテ原則はキリスト教の政治からの分離を担保する原則であったという点において、「政教分離」の「教」とはキリスト教的なものを念頭においている。その意味において「何を宗教的なものとするのか」という判断軸においてはキリスト教的価値観が不可避的に入り込んでいる。ヒジャブやブルカを身に付けるという行為を「宗教的なものの表現」と見做すのはキリスト教側であり、イスラーム教徒にとってはより日常的・実践的な行為である可能性や、自らのアイデンティティと分かち難く結びついたファッション的行為である可能性もある。「宗教的なファッションを公共空間において身につける」という行為の意味が、キリスト教徒とイスラーム教徒とでは当然異なるのだ。そのような「宗教的なものに対する捉え方」の相対化に加え、ある特定のアイデンティティが国家を保有するという発想を脱構築していくことが必要である。換言すれば、エスニシティやナショナリティを基底とする国民国家を解体し、アイデンティティの複数性に基づく市民国家を構築していくことが必要だということである。その中で様々なコンフリクトを避けては通れず、さらにはマジョリティのアイデンティティが変容していくことも避けられない。ポジティブな変容のために必要なのは、想像の産物であったナショナル・アイデンティティの内側に根源的な他者性(例えばイスラーム)が存在していることに気づくことである。その先に実現すべき真の多文化社会が到来するのではないだろうか。(教育学部3年)